中国の財閥を考える
だれが中国経済を動かしているのか?
第2部 「成功神話の主役たち」
いま、世界で最も成長している中国経済は、いったい誰が動かしているのでしょうか? 中国の財閥はどんな人脈、金脈のなかで、企業経営を行っているのでしょうか? これをテーマに「第一部」は中国指導者たちの子弟が米国留学を経て中国で絶大な影響力を背景に企業経営を行っている実態や、米国のブッシュ大統領の弟や子供が中国企業のお世話になっている実態をお伝えしました。 そうした実態を詳細に綴った「中国財閥の正体〜その人脈と金脈」(著者・宮崎正弘 発行・扶桑社)は、新興企業の素顔にも迫っています。 中国財閥を考える「第2部」は、中国株投資家に大人気の「万科企業」と「聯想集団(レノボ)」を取り上げます。 いずれも、説明するまでもない、いまや中国の若者にも憧れの企業です。 土地が国有の国家のなかにあって、不動産業は中国経済を引っ張る牽引車となっています。そのなかでも万科企業は不動産という業種を文字通り「不動の業種」にした牽引役といっても過言ではありません。 一方、レノボはPCを扱う企業だけに若者の人気企業ナンバー1とも言われています。中国のIT化のスピードはすさまじく、PCの消費市場はまだまだ可能性を秘めています。世界中のトップメーカーと対等に戦う聯想集団(レノボ)は、まさに「チャイナ版マイクロソフト」といえます。 でも、いずれも、その企業を育て上げたのは、「若者」でした。 中国不動産ビジネスで筆頭の地位にある「万科企業」。その司令塔は「王石」です。彼は1983年、大学を卒業して、最初に働いた地は広東省の深センでした。83年大学卒業ですから、日本の企業だと、いま中堅幹部といった年頃です。 いまでこそ、米国留学から帰国した若者が中国では活躍していますが、ちょうど、そのころは改革・開放路線が始まったばかりで、MBA(経営学修士)の意味も分からない、しかし野心に燃える若者たちが中国全土から深センに集まっていました。 王石も、そんな若者の一人でした。 彼は84年には深センで万科企業の前身となる家電販売店の責任者となります。扱っていた商品は、日本製の家電商品ですが、当時はソニーや松下は、まだまだ庶民には高嶺の花でした。 しかし、庶民の所得が向上し、深セン郊外には香港の金持ちや海外華僑が別荘を建て始めました。そのあと、香港の普通のサラリーマンが深センで分譲マンションを物色するようになります。 王石は「これはいける」とひらめきます。 というのも、当時、香港では2LDKのマンションが600万円が相場なのに、深センでは4LDKで450万円と格安でした。 土地が国有の社会主義国家・中国本土での不動産ビジネスが本格的に動き出します。土地の所有権は認められないため、50年の使用権を売買するという中国特有の不動産ビジネスです。 1988年、万科企業集団は、国有企業改革第一弾として、株式を民間に放出し、本格的な株式会社に脱皮しました。 王石は、資金かき集めに動きます。 会社が保有する不動産資産を担保に、いきなり株式を増資しました。 1980年代後半、香港はバブルの絶頂期。あまりにも不動産価格が高騰し、香港企業や台湾企業は中国本土に工場を移転し始めました。このタイミングを万科企業は逃しませんでした。 行政当局の土地を次々取得しては、マンションや工場特別区を片っ端から建設。株価は暴騰し、万科企業は増資に次ぐ増資を繰り返します。 1993年。上海に建てた豪華マンション「万科城市花園」は、中国の人たちの度肝を抜いたといいます。 38万平方メートルの敷地には、緑の公園があり、その空間の贅沢さと豪華な装飾は、それまで無機質な団地のイメージだった中国の住宅のイメージを一変させました。 94年、万科企業は北京に進出します。高さ180メートル、51階建ての高層ビル「海神広場」を着工。さらに、成都、瀋陽、天津にもマンションを建設し、万科城市花園ブランドは全国区となりました。 こうした成功の裏側には、資金調達の場としての株式市場の存在は欠かせません。いや、王石が株式市場をうまく活用・利用したといった方が適切かもしれません。 もうひとつ、面白いのは「高層ビルは中国人に人気が高い」(筆者)ことも有利に働きました。ちなみに、北京の高層ビル「海神広場」は当初2億元を投入し、利益率はなんと57%だったそうです。 万科企業はまさに「中国株式市場の申し子だった」といえます。 北京版シリコンバレー・中関村に「聯想集団(レノボ)」の本社はあります。 この企業はもともと中国科学院が出資したベンチャー企業でした。 しかし、いまや、世界を圧巻する「レノボ・コンピューター」の製造メーカーとして確固たる地位を築きました。日本でも中国語を利用するユーザーは、このレノボのコンピューターを持っている人は少なくありません。 日本企業をも脅かす存在となったレノボですが、最初は1984年、柳伝志(リュウ・デンシ)ら11人の若者が集まって、コンピュータの修理や講習会を開催するなど、創業期はあまりにも規模が小さくて将来性もまったく予想がつかない企業だったといいます。 というのも、当時は高い関税を支払って購入した外国製コンピューターを大手国有企業に納入するのが、コンピューター産業の主流でした。個人にPCを売るという商売が主流になるのは、まだまだ先。しかも、レノボは立ち上げ早々、営業免許をもらえませんでした。 そこで、柳伝志らは迂回戦術をとります。 まず、規制のない香港に上陸。米国製のPCの輸入と販売代理店を細々と経営しながら、そのPCを北京に輸出しました。 つまり、川の上流でビジネスを始めたわけです。米国→香港→北京・中関村というルートで商品を送り込み、徐々に世間が認知。1989年の天安門事件のころ、売り上げは芳しくなくなりましたが、94年、ペンティアム搭載機器を発売して国内シェア3位に躍り出ます。さらに、96年には国内の市場で1位となり、以後、その地位は不動です。 売り上げの推移もみてみましょう。 1994年 50億元 1996年 100億元 1998年 200億元 2000年 280億元 1900年代は2年で売り上げを倍々ゲームに増やしています。2000年には中国国内の市場シェア3割。その成長ぶりは驚異的です。 さて、「中国のビルゲイツ」と言われる、レノボの創始者・柳伝志は、どんな人物なのでしょうか。 1944年生まれで、江蘇省出身。現在60歳前後ですね。江蘇省は実務的で計画性を持つ人物が多いとされるそうです。その柳が、もっとも影響を受けたのが、「台湾エーサー」の創始者・施振栄(セ・シンエイ)の自伝だったと、柳自身が回想しているそうです。 その自伝に、こんな一節が出てきます。 「道路はまっすぐとは限らないが目的地があるように、人生は平坦なものではなく、そこには熱狂的変質的な時期がある」 まさに、中国でのパソコン需要を暗示しているような一節です。柳がパソコンの製造・販売に熱中したのは、まさに「熱狂的変質的な時期」がくると信じていたからでしょう。 その柳の引き際が、また、柳的です。 2001年、彼は50代半ばで一線を退き、36歳の楊元慶(ヨウ・ゲンケイ)に社長を譲ります。この引き際のスタイルもまた、「ビル・ゲイツ風」です。 このレノボ神話は、中国の若者に「チャイナ・ドリーム」という新しい夢と生きがいを与えました。似たようなベンチャー企業が次々と生まれています。日本の投資家にも人気が高く、そのPERが異常に高い「方正」もまた、「第2のレノボ」を目指す企業といえます。 この企業は北京大学が設立し、ソフト、ネットワーク、システムの世界に一気に登場し、いまや中国全土の量販店やIT専門街で欧米や日本の製品と軒先を争っています。 今回、代表的な「チャイナ・ドリーム」を紹介しましたが、皆さんはどんなことを感じましたか? ほたるの投資スタイルはインフラ中心です。でも、ちょっと競争の激しい分野でも、投資家としての夢を見たくなってしまいますよね。 でも、ベンチャーや時価の小さな企業への投資はポートフォリオの3割にとどめるとか、必ず、リスクヘッジしてくださいね。 さて、みなさん、2回にわたって紹介しました「中国財閥の正体〜その人脈と金脈」(著者・宮崎正弘 発行・扶桑社)ですが、とても面白いレポートです。ほたるは、面白くって、あっという間に呼んでしまいました。しかも、読み応え十分ですよ。 ご紹介したのは、ほんの一部ですから、ぜひ購入してお読みになってくださいね。
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