秋雨―autumn rain―

朝の冷たい空気が辺りを静寂で満たす。
清純な緑の香りが鼻腔をくすぐる。
少し湿った落ち葉の感触を確かめながら進む。
そしてそこを抜けると急に視界が開ける。
街を見下ろし、遥かな山々を望むパノラマの景色。
空と大地の出逢う場所。

ここは学校の近くにある高台。
ただ道路から少し森に分け入った所にあるせいか
意外に知られていないようで、
いつも人の気配がまったくしない。
だからここは俺だけの秘密の場所。
そして一人になりたい時、風を感じたい時にしばしば訪れている。
そう、今日のように。
…だが今日はいつもと違っていた。

先客がいた。
少女だった。
俺がその傍らに立っても気付いた様子はなかった。
本当に気付いていないのか、それとも感心がないだけなのか。
ただ吹きぬける風に身を委ねていた。
だから俺も同じように風に身を委ねた。
朝日にきらめく透明な風に。
一人になりたくてここに来たのだが、
少女が隣にいることは別段気にならなかった。
むしろその存在に、不思議な安らぎをおぼえるぐらいだった。

どれぐらい刻が経っただろうか。
ひときわ強い風が通り過ぎたあとで、俺はその少女に話し掛ける。
普段ならそんなことをする俺ではない。
だが、何故か今はそうしたい気分だった。
「きみはよくここに来るの?」
返事など期待していなかった。
それでも別に構わなかった。

ところが少女は特に驚いた様子もなく、
あまりにも無邪気な表情でこう答えた。
あたかも気心の知れた親友と話すような口調で。
「あっ、えぇと…ううん。ここに来るのは初めてだよ」
だから俺の方が面食らってしまった。
「あっ。そっ、そうなんだ」
そして改めて少女のことを見た。
やや小柄だが、その面差しからして年は俺と同じくらいだろうか。
髪は肩にかかるかかからないかという長さ。
黒のプリーツスカートに黒のブレザー。
ブラウスの襟元には赤いリボンが結ばれている。
この辺ではあまり見かけないものだが、
制服としてはそれほど奇抜なデザインというわけではない。
手に鞄はなく、かわりに傘を持っていた。
赤と緑を基調としたタータンチェックの傘が無彩色の服に映える。
だが…。

俺は空を見上げる。
そこにあるのは澄み渡る青空。
秋特有の薄い巻積雲がたなびいているものの、
雨の降りそうな気配は微塵もなかった。
「俺、天気予報見てこなかったんだけど、今日は雨降るの?」
「う〜ん、わかんない。でも……」
「でも?」
「…私、雨女だから」
ほんの一瞬。
少女の無邪気な瞳に様々な想いがよぎった。
過去を顧みるように。
未来を仰ぎ見るように。
そして今を愛しむように…。

それからは二人とも無言だった。
それぞれ自分だけの世界の中で、自分だけの風に包まれていた。
ふと腕時計を見る。
時間はもう予鈴5分前。
ここから学校までの距離を考えると遅刻ギリギリだ。
だから俺は少女に声を掛けた。
なんとなくそうするのが自然に思えたから。
「あっ、俺そろそろ行かなきゃ」
「そうなんだ。じゃ、ばいばい」
「うん、じゃあな」
笑顔で手を振る少女に軽く応じて、
日常との境界である森の中へと俺は駆け出した。

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放課後。
帰宅部の俺はすることもなく家路につく。
下駄箱に押し寄せる人波をすり抜け、
昇降口を出たところで不意に冷たい雫が頬に当たる。
見上げた空は暗灰色の雲に覆われ、
そこから零れ落ちる雨粒は見る見るうちに数を増し、
ほどなくして絶え間なく流れる無数の銀の糸となる。
俺はため息を一つ吐くと、覚悟を決めて頭の上に鞄を掲げ、
雨の中へと足を踏み出す。
静かに、規則正しく降る雨は白い靄(もや)となって視界を遮る。
濡れた制服は身体に纏わりつき、俺の動きを妨げる。
それでも水溜りを蹴って、ひたすら走る。
傘を忘れた己の迂闊さを呪いながら。

「傘?」
そういえば今朝、俺は不思議な少女に出逢ったのだ。
無邪気で、それでいて何かを瞳に宿していた少女に。
青空の下で傘を持って佇んでいたその少女は、
自分のことを”雨女”だと言っていた。
「なるほど。ホントに雨女だったんだな…」
なんとなく納得した俺は少しだけ心が軽くなった気がして、
走るペースを更に上げて家までの残り2キロの道程を疾駆した。
道端ですれ違ったタータンチェックの傘に気付くことなく…。

そして少女はゆっくりと、雨のカーテンの奥へと消えていったという。
<了>

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