「さてと、今日はどこにいこうか…」
正午を告げる鐘の音が響きわたるなか、一人の男が歩いてゆく。
淡い白色で統一された廊下には暖かな光が射し込む。
決して豪奢とはいえないが、どことなく高貴な感じがただよう、そんなところ。
世界有数の軍事国家、カイゼルランドの王城である。
一国の主の居城にしては驚くほど質素なのは、
歴代国王のいずれもが名より実を重んじる為人(ひととなり)であったためだろう。
とはいえ、まだ5代しか続いてはいないのだが。
城の5階、南西にある彼の部屋から東へと進むと、向こうからの人影がみえる。
分厚い本を数冊かかえている、線の細い少女。
誰が見ても中学生か高校生くらいにみえるだろう。
やはり本が少し重たいようで、いつもよりゆっくりと歩いている感じだ。
「やあ、ひさめちゃん」
男の声に少女が顔をあげる。
「あっ、ラウンツェルさん、こんにちは」
そう言いながら、ちょっと頭をさげる。
「今から、セリオスとお昼を食べに行くけど、一緒にいかない?」
男― バルト・ラウンツェル―は呑気にそんなことを聞く。
今は普通のゆったりした服を着ているが、その体格や雰囲気は明らかに戦士のそれである。
それも数々の死地をくぐり抜けてきた猛者。
武術の心得があるものなら、彼が発する穏やかながらも力強い気配を
微かなりとも感じ取ることができるだろう。
だが、ひさめと呼ばれた少女は別に怯えているふうではなく、
ただ申し訳なさそうにこう答えるのだった。
「ごめんなさい。今日はちょっと図書館で調べたいものがあるんです。
夕方から出掛けないといけないので、あんまり時間がなくて……。
また今度誘ってください」
再び頭を下げてから歩き出す、やや危なっかしい足取りで。
それをなんとなく見送る男は、一人こう呟くのだった。
「そう言えば、今夜は雨だっていってたな…」
それもほんの刹那のことで、向き直ると彼もまた歩き出す。
南東のかど、ひさめの部屋の前を左に曲がり北東の部屋に着くまで
それ以外の人には誰とも会わなかった。
まあ、いつものことなのだが。
そして目的地のドアをノックしつつ彼はこう叫んだ。
「お〜い、セリオス。そば食いにいくぞ〜!!」
いつもと変らぬ昼のひとこま。
昼間の温かい空気に湿った風が混じり、それはやがて雨となって地上を濡らす。
天気予報でいっていたことだが、突然の降水に慌てる人たち。
うっかり傘を忘れた人は上着を頭にかぶったりして雨をしのげる所へ走り、
そうでない人もやや憂鬱そうに帰りを急ぐ。
夜になると雨脚はいよいよ強く、あらゆるものを叩いては雫となって地に落ちた。
そんな中を数人の男達が歩いている。
彼らはいずれも殺し屋―他国からこの国の重臣を消すために送られてきた刺客である。
HAをすべての国家が放棄したと言っても、戦争がなくなった訳ではない。
そして文明的に逆行した時代は、彼らのような人種を必要とした。
そんな彼らが不意に危険な気配を感じる。
よくよく目を凝らせば降りしきる雨の向こうがわに人影があった。
体格からして少女のようである。
黒いロングスカートに、青いラインの入ったホワイトケープ。
左手は2尺3寸ほどの刀の鞘を握っている。
そして傘は差していない…。
ここまでの情報を一瞬で得られるのは夜目の利く彼らだからこそだが、
そうでなくては生き残れない業界であるのも確かだった。
まず3人が傘を捨て、得物を抜きはなつ。
待ち伏せされていたことを考えれば、彼らの正体と目的はすでにばれているはずである。
ならば敵を消す以外に道はない。
水たまりを蹴って殺到する3人は、各々が得意とする構えで斬りかかっていく。
そして両者の間合いが重なり合う瞬間、少女は鯉口を切った。
殺し屋たちを強烈な悪寒が襲ったのはその時である。
戦っていて相手の熱い気配を感じというのはよくあることだ。
しかし冷たい気配というのは希である。
ましてやこれほどの、身を縛るような恐ろしい冷気というか氷気を放つ者が
古今東西、果たしていただろうか?
一瞬、3人の動きが鈍る。そしてそれがすべてだった。
完全に刀を解放した少女はすれ違い様に1人目を斬り、
返す刀で2人目を水溜まりに沈め、振り向いた3人目の攻撃をかわして
そ奴の左胸を鋼鉄の刃で貫いた。
少女がどれほどの間、雨の中に立っていたかは分らない。
だが、前髪をつたう雫が視界を妨げ、濡れたスカートが脚にまとわりついても
それがなんら影響を及ぼしていないように思えるほど、彼女の動きには無駄がなかった。
あまりの威圧感にけおされていた残りの4人も、ここへ来てようやく我に返る。
仲間の死に動じる彼らではない。そのうちの2人が同時に襲いかかる。
連携攻撃を得意とするようで、一方は右、他方は左に剣を構え、
全く同じタイミングで走り寄り、そして同時に振りかぶる。
だが少女は慌てた様子もなく、やや右半身に構えなおす。
そして2人組が間合いに入る瞬間に僅かなタイムラグを生じさせ、
続けざまに斬って捨てた。…なんのためらいもなく。
「なるほど、強いな」
最後の2人のうち背の高いほうだった。
そう言いながら抜いたのは刀身を真っ黒に塗られた細身の剣。
光が刀身に反射して居所が露見するのを防ぐため、昔から忍びの者や
暗殺者(アッサシン)達が用いていた方法だ。
彼自身も黒ずくめの装束で闇に溶け込んでいる。
「だが俺は奴等ほどヌルくはないぞ!」
確かに足さばきが違う。濡れた石畳の上を滑るように近づく動きは
恐ろしく速く、そして静かだった。
高速の突きを難なくかわした少女だが、続けて来る横薙ぎの一撃は
刀によって受けねばならないタイミングだった。
微かに響く金属音。
その音は断続的に、幾度もあたりに広がり、そして雨に消えていく。
これまで5人を一度も剣を交えずに倒した彼女だが、6人目はそうもいかないようだ。
黒装束と黒の剣、そして天然のカーテンの如き雨の為、
視覚では殆ど捉えることができない。
しかも気配を極力消し、遠い間合いからの刺突をメインに攻めてくるのだ。
そしてあの動き…。
形勢は徐々に黒剣の男に傾いていく。
腕も体も細い少女は先程から、懸命に攻撃を受け止める一方だ。
不意に少女がしゃがみこむ。
その機を逃さず全力の突きを繰り出す。
だがそこに標的はなく、大きく跳び退いた少女は刀を鞘に納めていた。
最初に捨てた鞘を拾っていたのだ。
「…居合いか。なら先に撃たせる訳にはいかないな」
男は本能的に決着の刻を悟った。
もはや押さえていた気配を全開にして突撃する。
灼熱の炎を纏ったかの如く、黒い剣は唸りを上げて少女へと伸びてゆく。
少女の右手は柄にかかり、左手が鯉口を切る。…2回目だ。
そして再び吹き上がる冷たい波動。いや、先程の比ではない。
一瞬にして黒装束の男の熱い闘気を消し去り、その精神を絶対零度にて凍りつかせた。
すべて者の生存を拒絶するかのような圧倒的な寒さで…。
男が両断されたのは次の瞬間のことだった。
どれほど経ってからであろうか、残った1人が奇声を発して逃走したのは。
別に気にも留めていない様子だった。
今日の仕事は果たしたのだから。
刀を鞘に戻し、闇に、水に消えて行く。
いつもの通り、冷たい、氷のように冷たい雨の降る夜のできごと。
雨の夜、王城の廊下が濡れていることがあるという。
そしてその跡は、5階の一角、遠方4騎のひとりである『氷雨』の部屋まで
続いているという話である。
しかし、その真の意味を知る者は少ない。
<了>