雨が来る

何気ない一日の何気ない夕刻。
何気なく窓を開けるとそこには灰色の空。
しっとりと湿った空気。
高く低く響く風の音。
濃厚な雨の匂いがした。

雨が来る。

気がつくと家を飛び出していた。
商店街をすり抜け、橋を越え、坂道を駆け、
街を見下ろす高台を目指す。
いつもより少し低い空の下で。
いつもより少し重たい空気をかき分けて。

雨が来る。

坂道の終わりが見える。
両側の森が途切れ視界が開ける。
あと三歩。
二歩。
一歩。
そして……風が私を包み込んだ。
ひんやりとした心地よい風。
柔らかくて優しい風。
雨を連れてやってきた透明な風は
私の身体を通り抜け、私の心を通り抜け、
彼方から彼方へと吹き抜けてゆく。

雨が来る。

両手を広げ目を閉じる。
胸いっぱいに空気を吸い込む。
雨の匂いと雨の味が静かに肺を満たしてゆく。
気持ちがだんだん穏やかになってゆく。
私がだんだん世界に溶けてゆく。

雨が来る。

…ぽつり。
鼻の頭に落ちる雫。
それはすぐに無数の雨滴となり
灰色の空に覆われた世界を
鮮やかな雨色に染め上げてゆく。

雨が…来た。

静かな雨に抱かれて私は世界とひとつになる。
心が無限に広がってゆき、それはやがて雨の心にも触れる。
雨は何も語らず、ただ皆に安らぎを与えるだけ。
木々に恵みを。
大地に潤いを。
人の心に癒しを。
そしてまたひっそりと去ってゆくのだ。
その心はとても優しくて、
ほんのちょっぴり悲しかった。

くしゅん。
くしゃみの音で目が覚める。
丘の上に立っているのは全身ずぶ濡れの私。
どうやら雨の中で居眠りしてしまったらしい。
早く帰ってお風呂に入らなきゃ風邪ひいちゃう。
そんなことを考えながら軽やかな足取りで家路につく。
雨に洗われて清々しいほど澄んだ心で。

何気ない一日の何気ない夜。
何気なく見上げるとそこには満天の星。
そしてかすかに漂う雨の残り香。
<了>

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