朝靄

いつもの通学路。
見慣れた景色。
それらがだんだんぼやけてゆく。
朝靄に包まれてゆく。
それでも私は歩みを止めない。
だってこれもいつもの風景の一部だから。
白いカーテン越しの木々と
ひんやりした湿った空気を楽しみながら、
静かな朝の小径を歩いてゆく。

あれっ?
不意に何かが目の前を横切った。
靄のせいでよく見えなかったけど、
それは左から右へ通り過ぎ、山の方に駆けていったみたい。
普段なら気にも留めないはずなんだけど、
どうしてだろう、今日は不思議と気になった。
だからあとを追いかけてみることにした。
そんな些細なきっかけ。

ゆるやかな斜面を早足で歩いていく。
だんだん濃くなってくる朝靄の中で
浮かんでは消えるちいさな姿。
時折止まって私の様子を窺いながらどんどん進んでいく。
やがて辺りが真白に染まる。
まわりの景色も足元も、自分自身もよく見えない。
それでも何故か、前を進むちいさな姿はちゃんと見えた。
だから私はそのあとを追いかけた。
何も怖れることなく。
ただ無我夢中で追いかけていった。

一体どれぐらい歩いたのかな。
追いかけっこの終わりは唐突に訪れた。
靄が晴れて急に視界が開ける。
眩い光に思わず目を閉じる。
そしてゆっくり目を開くと、こちらを向いて佇むちいさな姿があった。
それは…兎だった。
薄茶色の毛。
可愛らしい耳。
つぶらな瞳。
それが私を見ていた。
私は恐がらせないように静かに歩み寄ると、その兎を抱き上げた。
兎は別段嫌がる様子もなく、私の腕の中に収まっていた。
その時になって、私はようやく自分がどこにいるのかに気付いた。

頭上いっぱいに広がる藤棚。
淡い紫色の花が控えめに咲き誇り、葉の緑色がそれを引き立てる。
ほのかな香りが辺りを満たす。
それは素敵な花のシャワー。
私の心を潤して、力を与えてくれる。
藤棚の隙間からのぞくのは眩しい空。
どこまでも駆け上がれそうな、そんな澄んだ青い空。
空がこんなに青かったことを私は初めて知った。
そして眼下には朝靄に煙る街並。
私の生まれ育った街。
白いヴェールの向こうに灯る明かりが人々の生活の証。
ぽつり、ぽつりと明かりはだんだん増えてゆき、
今日も一日が始まっていく。

今、私は世界の頂きに立ってるんだ。
何故かわからないけどそんな気がした。
私は静かに目を閉じた。
この素晴らしい風景と雰囲気を目だけでなく心にも焼き付けるために。
腕の中の温もりを感じながら、私は心を解き放った。
私の心が世界に広がってゆき、代わりに私の心の中に世界が流れ込んでくる。
そして私の心が世界とひとつになったとき、
ゆっくりと意識が遠ざかっていった。

あれっ?
気が付くと私は薄い靄の中に立っていた。
そこは藤棚の下ではなかった。
朝靄に浮かぶ街並とその上に広がる青い空もなかった。
そして腕の中の小さな温もりも消えていた。
そこはいつもの通学路。
見慣れた景色。
すぐ先の神社の前を左に曲がれば学校だ。
おかしいなぁ?
あれは夢だったのかな?
でも…。
ふと香りがした。
ほのかな甘い香りが。
見ると胸のポケットに一房の藤の花。
薄紫色の花が芳香を放っていた。
ああそうか。
やっぱり夢じゃなかったんだ。
私は一つ頷いて、学校への残りわずかな道を歩き出した。

ちょっと不思議な朝のひととき。
朝靄の中のちいさな出会い。
いつもと違う角度から見た世界の姿。
なんだか元気をもらっちゃったみたい。
だから今日も一日頑張ろうっと!
<了>

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