ふと気がつくと、わたしは歩いていた。
ある一点を目指して。
それが何処なのかは分からない。
そこに何があるのかも分からない。
でも…行かなきゃいけない気がしたから。
コツ、コツ、コツ……。
透明なガラスの床を歩くたびに、澄んだ足音が響く。
足元を覗くと、その下には無限の空間が広がっている。
足元だけじゃない。
どの方向を見ても、ほの明るい光に満たされた世界が続く。
すべてがガラスで構成された不思議な迷宮。
幾重にも折り重なる不可視の壁が、複雑な回廊を織り成す。
ともすると宙に浮いているような気分になる。
それどころか、自分がまっすぐ立っているのかさえ定かではない。
目に見えるのは無限に透き通るガラス越しの光。
耳に聞こえるのはこだまする自分の足音。
そんな触れる床の感覚だけが頼りの無色透明な幻想の中、
それでもわたしは何故か少しもつまづくことなく、
迷うこともなく、確実に歩を進めていた。
ある一点を目指して。
緩やかなスロープをのぼり、突き当りを左に曲がり、目の前の小さな扉を手探りで開く…。
そして壁の陰にひっそりと隠れた螺旋階段をのぼっていく。
ゆっくりと、だが確実に遥かな高みへと導かれてゆく感じ。
いつの間にか流れ出した空気が、わたしの脇をすり抜けて行く。
「もう少しだよ」と耳打ちしながら。
そして階段が途切れたところで、不意に何かが目に入った。
それは鏡だった。
わたしの背丈よりすこし大きいくらいの鏡。
磨き上げられた表面はきらきらと光を反射していた。
そしてそこに映っている人影…。
それは確かにわたしだった。
セーラー服に紺のスカート。
セミロングの髪を留める赤いリボン。
見紛うはずもない、わたし自身の姿。
でも…。
鏡に映るわたしは儚げで、寂しげで。
祈るように、眠るように、何かを待つように。
ひっそりと目を閉じて佇んでいた。
もうひとりのわたしの顔を見たとき、わたしはようやく気付いた。
わたしが目指していたところ。
わたしが探していたもの。
そして、わたしがすべきことが…。
わたしはおもむろ右手を伸ばし、目の前の鏡に触れた。
そして向こう側にいる、もうひとりのわたしに呼びかける。
「さぁ、行こう!」
たったひと言。
でもそれで十分だった。
もうひとりのわたしがゆっくりと目を覚ます。
少しおぼつかない足取りで鏡に近づき、左手でわたしと同じようにそっと鏡に触れる。
鏡越しに触れ合う手と手。
向き合う笑顔と笑顔。
その時のわたしたちは確かに完全なる鏡像だった。
そしてそれを合図にするかのように、硬いはずの鏡面が水のように揺らめきだす。
飛沫を上げながら水の中、鏡の向こうに沈み込んでゆくわたしの手。
それはもうひとりのわたしも同じだった。
手と手がしっかりと繋がり、静かに溶け合ってゆく。
徐々に重なり合い収束してゆく、わたしとわたし。
何の違和感もなく、やがて「ひとつ」になり………そして世界は砕け散った。
虹色の光芒が辺りを満たす。
見たこともない、それなのに何故か見覚えのある光景が
絶えず形を変えながら猛スピードで流れてゆく。
覚醒までの刹那の時間。
浮遊する思考でわたしは考える。
異界に広がるガラスの迷宮。
それは、脆く崩れやすいわたしの心が創り上げた架空の世界。
全てを拒絶し、全てを放棄したわたしが辿り着いた偽りの楽園。
何も考えずにただ眠り続けることのできる永遠の棺。
この心地良い場所にずっといるつもりだった。
ずっといたかった。
でも…。
そうじゃんかったんだ。
本当はここから抜け出したかったんだ。
もう一度青空を見たかったんだ。
世界を創造し、その中に自らを封じ込めたわたし。
何人をも寄せつけない絶対不可侵の世界に。
そしてその世界を壊し、そこから私を解き放つことが出来るのは
やはりわたし自身だったんだ。
全てを捨てた心と、微かな希望を守り続けた心。
二つに分かれた心が一つになり、今わたしは新たな覚醒を迎える。
ふと気がつくと、わたしは立っていた。
空と大地の接するこの場所に。
気ままに流れる純白の雲を纏う青空。
季節を運んでくる風に揺れる草原。
そしてその間に佇むわたしは、紛れもなく自由だった。
きっとわたしはどこへでも行ける。
心の赴くままに。
手のひらに残る鏡のかけら。
そこに映る、もうひとりのわたし。
その笑顔に笑顔で応え、わたしはここから歩き出す。
辛い記憶はまだ消えない。
落した涙はもう帰らない。
それでもわたしは、逃げたりしない。
もう一度この世界で生きてゆくって決めたから。
この世界がまだ好きみたいだから…。
<了>