「…さっきはすまなかったな」
運転席の男は言った。車輌の進行方向から目を反らすことなく。
だが、その表情からは心なしか”気まずさ”というものが窺える。
まぁ、先程の出来事を考えれば当然かもしれないが…。
「そんなに気にするなよ、もう済んだことだろ。
それにそのおかげで俺も仕事に間に合いそうなんだからな」
一方で、そう答える助手席の男の声はひどくあっけらかんとしたものだった。
どうやらかなり楽天的な性格らしい。とりあえず表面的にはそのように見えた。
「しかし、たしかに驚いたよな。まさかいきなり斬りつけられるとはな…」
そして猛スピードで流れゆく車窓からの風景をぼんやりと眺めるのだった。
どこまでも、どこまでも広がる灰白色の風景を…。
**********
砂塵の吹き抜ける裏通り。
角を曲がると、向こうから歩いてくる人影がひとつ。
着物姿に一振りの太刀。
殺気は全く感じないが、これまでの戦闘経験からその者がかなりの手錬であることは感じ取れた。
それにこんな格好をしている者は、このあたりではそうそう見掛けるものではない。
―コイツも刺客か?―
とっさに頭に浮かんだのはそれだった。
街に入ってからずっと続いたいた、つけられているような気配。
その気配の持ち主ではないようだったが、油断はできない。
ニ人組の片割れかもしれないし、別の刺客かもしれない。
なにしろ、何人追手を掛けられていてもおかしくない立場なのだから、彼は。
殺気を押さえ、歩調も一定を保ちながら、静かに相手の出方を窺う。
相変わらずのんびりと歩いてくる人物との距離が徐々に縮まってゆく。
残り2メートル。1メートル。
そしてすれ違う刹那、先に剣を抜いたのは着物姿の男ではなく、
彼―トラス=ハウンド―の方だった。
確信はなかった。だが、疑わしきは即座に潰すべし。
それが逃亡者たる彼の生き残る為の決断だった。
振り向きざまに放たれた横薙ぎの一撃。
胴を斬り払うには十分な威力と速度を持った一閃は、しかし目標の寸前で弾かれた。
相手の男も、トラスに一瞬遅れて抜刀したのだ。
鉄と鉄とがぶつかり合う澄んだ音色。
そして双方に等しくかかる衝撃によって、互いに半歩下がって間合いをとる。
「お、おい」
「……」
「ちょ、ちょっと待てよ。人違いじゃないのか? 俺は通りすがりの一般人だぞ。
お前の事なんか知らないし、いきなり斬りかかられる覚えはないんだけどな……」
慌てたようにそうまくし立てる着物の男。
だが構えに曇りはなく、切っ先は正確にトラスの喉元に向けられていた。
やはり只者ではない。先手を取られていたら危なかった。
そう思いながら、こちらも微動だにせずに対峙する。
「……」
「って、人の話を聞けよ。別にお前を狙ってるなん……っとと」
不意に仕掛けたトラスの刺突。そしてそこから派生する銀色のサンドストームの如き猛攻。
陽光を受けて輝くロングソードが幾度も幾度も必殺の一撃を繰り出してゆく。
だが男は、自分から攻撃に転じることこそないが、トラスの太刀筋を確実にかわし、弾き、
あるいは受け流していった。実に無駄のない、最小限の動きで。
攻める者と守る者。その関係がかわることなく続いていった。
単調で、それでいて常人の目には止まることのないスピードで展開される剣戟の中で。
さすがのトラスも一時間近く全力の打ち込み続けるとさすがに疲れがたまってくる。
追い討ちを掛けられないタイミングを見計らって、一旦間合いを取る。
「……」
先程と同様に無言。だが呼吸のたびに肩が上下に揺れている。
「だから待ってての。ただでさえ仕事に間に合わいそうにないんだから、
そろそろ通してくれないか?」
一方で、ほとんど呼吸を乱していない着物の男は、まだそんなことを言ってのける。
トラスを甘く見ているとか、余裕があるとかそういうことではなく、
彼の性格がもともとこんなお気楽なものなのであろう。
過酷なこの地で生きるには適していないような気がしないでもないのだが。
しかし、よもやあれだけの猛攻を凌がれようとはな。
どうやら剣の腕は相手の方が遥かに上のようだ。
これまでに幾つもの”仕事”をこなしてきたトラスだが、これほどの相手に巡り会ったのは初めてだ。
「…仕方がない」
あれを使うか。剣での負けを認めるようで多少不本意ではあるが、この際背に腹は変えられない。
こんなところで死ぬわけにはいかないのだから。
すぅっ…。空気を腹に溜める。
剣を上段に構えなおす。ただし左手主導で。
そして静かに機を待つ。
相手の方もトラスのただならぬ気配を察してか、先程よりも真剣な面持ちで
刃渡り1メートルの凶器をこちらは下段へと運ぶ。
数え切れないほどの砂塵に見舞われてぼろぼろになった裏路地の壁。
時折、陽光をあびて銀色に輝く砂は風に乗ってさらさらと流れゆく。
今日も明日も明後日も、永遠に繰り返されるであろう、ここファームスベルトの光景。
その中で、まるで世界には時がないかのように、ぴくりとも動かずに対峙する二人。
互いに気を読み合い、出方をうかがう。
頬を打つ灰白色の粒子を気にすることもなく。
と、2人の間を一際激しい風が吹き抜ける。一瞬だけ視界が阻まれる。
そしてそれが去った刹那、トラスの足はゆらりと砂の上を滑り、
加速しながら相手の間合いを侵略する。
着物の男の方も十分に腰を落し、一撃に賭ける。
”静”は瞬時に”動”へと変わり、2本の斬線が今まさに交差しようとする!
そのときだった。トラスの背後、正確には右斜め後方の
地面から10メートルほどの高さの地点に猛烈な殺気が生じたのは。
それは紛れもなく、街に入ってからずっとトラスを付け狙っていた者、
”組織”からの刺客の気配であった。
暗殺者は両腕に装備された特製のガントレットから無数のワイヤーを飛ばす。
目に見えぬほどの細さでありながら触れたものを瞬時に切断する強さと切れ味を持った
俗に言う”死の糸”という武器である。
巧みにコントロールされた鋼の糸はわれ先にとトラスへと殺到していく。
あたかも血の匂いに導かれた毒蛇の群れの如く。
だが、トラスはいたって冷静であった。
眼前に迫る斬撃を全く無視すると、わざと空振りしたロングソードをその勢いに任せて
左手一本で背後の敵へと放り投げた。振り返ることもせず。
回転しながら飛ぶロングソードは、まるで計算され尽くされているかのように
襲い来るワイヤーのことごとくを巻き込みながら暗殺者の脳天めがけて疾駆する。
焦ったのは刺客の方だった。
思わぬ一般人の介入によって暗殺の絶好のチャンスを得、
万全のタイミングで仕掛けたにもかかわらず、いともあっさりと攻撃をかわされるとは。
しかも逆に自分が身の危険にさらされるとは。
いままさに命を奪わんとする刃を、咄嗟にガントレットを頭上で交差することによって
かろうじて弾く。
本当ならワイヤーを強制排除して剣をかわすべきところだったのかもしれない。
だが焦燥は彼の思考を一瞬遅らせ、防衛本能に従った行動に先を越された。
その行動は正しかったのかもしれないし、そうでなかったかもしれない。
あるいはどう行動しようと、彼の運命は決まっていたのかもしれない。
がぎぃぃぃ――ん!!
耳障りな衝撃音。
宙に舞うロングソード。
微かに響く銃声。
そして弾丸は、刺客の男のがら空きな胴のなかで正確に心臓を貫いていた。
「…どうして途中で刀を止めた?」
2階の屋根から転落したもの言わぬ骸から、鋼線の絡まったロングソード取り返しながら問う。
そうなのだ。あのとき、刺客が仕掛けてきた時、着物の男は放ちかけていた斬撃を
トラスの直前でぴたりと止めた。いくら刺客のことを絶えず気に留めていたトラスはいえ、
あそこで刀が止まっていなければ、ああも鮮やかな逆撃を刺客に放つことはできなかっただろう。
「どうして、といわれてもなぁ…」
ぽりぽりと頭を掻く着物の男。
彼の愛刀はすでに黒塗りの鞘へと収められている。
「はじめからあそこで止めるつもりだったから、としか言いようがなんだよなぁ」
さらりと言ってのける。
「…ほう、俺がおまえを殺そうとしていたことは分かっていただろう。
何故あそこで俺を斬らなかった?」
うざったいケーブルからようやく剣を解き放ったトラスは再び問う。
飄々とした男の眼をするどく睨みつけながら。
「簡単なことさ。だってあんたは俺を殺そうとはしてなかったじゃないか。
”俺”という個人じゃなくて、”刺客”という幻影を斬ろうとしてたんだから。
そうだろ?」
にっ、と白い歯を見せて笑う。
その笑顔に屈託はなく、そしてその眼は澄み渡っていた。
―負けた―
トラスは思った。剣でだけでなく器の大きさで。
今まで多くの仕事をこなし、幾多の戦いを経てきた彼だが、
敗北というものを経験したことはなかった。
敗北、イコール死であると教えられていたし、彼自身もずっとそうだと思っていた。
だが、今の気持ちはどうだ? この清々しさはなんだ?
確かに彼は負けたのだ。にもかかわらず、こうして生きている。
生きて砂の上にしっかりと立ている。そして心は今までにないくらい晴れやかであった。
「…では、お前は本当に俺を狙ってきた刺客ではないんだな?」
「だから最初からそう言ってるだろ。
この蒼澤鯨(あおさわ けい)、賞金首以外は殺さないのが信条だからな」
そう言いながら懐から取り出したのは大福帳の如き分厚さを誇る、
愛用の賞金首リストである。
「俺はこれに載ってる奴だけをターゲットにしてるんだ。まぁ例外もあるけどな」
ぱらぱらとリストをめくってみるトラスだが、そこに彼の名前と顔は載っていなかった。
当然である。彼の今までの仕事は完璧であり、
目撃者はおろか証拠も一切残してはいないのだから。
それに彼を追っている”組織”としても、彼の暗殺は秘密裏に行う必要があり、
したがって賞金首として彼のことを一般に公表するような愚を冒すはずがない。
無表情にリストを返すトラス。
「……そうか。それなら悪いことをしたな」
そしてそれだけ言うと踵を返し、歩きだそうとする。
「あぁ。……って、ちょっと待ってくれ!」
「どうした?」
振り返ると、そこには鯨、と名乗る男の少し困ったような顔があった。
「そういえばお前さん、何か乗り物持ってないか?
出来れば思いっきり速いやつがいいんだけど」
「…どういうことだ?」
一瞬トラスの顔つきが険しくなる。体中から殺気が滲み出す。
―こいつ、知っているのか? 俺の車のことを―
”組織”を抜ける時に奪ってきたホバートレーラー。
それはおそらく、地上で最も速い乗り物である。
だがそれを知ってるということは、こいつはやはり…。
ところが、それが単なる考えすぎであることはすぐに判明するのであった。
「え?どうしたんだよ、おっかない顔して」
鯨はちょっと首をかしげると、ばつが悪そうに頭を掻きながら続けた。
「実はさ……寝坊しちゃったせいでバスに乗り損ねて仕事に遅れそうなんだ。
だから誰か送ってくれないかな〜〜って思ってたわけよ。
それで、どうなんだあんた」
「はぁ………」
風の止んだ路地にトラスの深くて長い溜息が響き渡った。
**********
「…しかし、丸一日も寝坊するとは豪胆な奴だな」
平坦な砂漠を疾走するホバートレーラーの運転席で、
トラスは思い出したように呟く。
そう、鯨は本来なら1日前のバスで隣街に行き、
3日後に仕事をする予定だったのだ。
だがバスに乗り遅れてしまった。そして次のバスは一週間後…。
つまりこの上なく完全な寝坊だったわけある。
「しょうがないだろ、眠かったんだから」
助手席でくつろぐ鯨に反省の色は全くない。
「そんなことで勤まる仕事なのか」
「な〜に、基本的にはただ暗殺をするだけの気楽なものさ。
まぁ刀を忘れていったり、ターゲットの顔をド忘れしたりと、
ボケかましたことはいくらでもあるけど、失敗したことは無いな、今のところ」
そんなことを平然と言ってのける。
あっけらかんとした性格。
恐ろしいまでの剣の冴え。
まだまだ謎の多い人物のようである。
「そういえばちゃんとした自己紹介がまだだったな。
俺は蒼澤鯨。今言ったように裏仕事をいろいろやっている。
あ、あんたは別にいいぞ。なにやら分けありみたいだしな」
「…いや構わん。俺はトラス・ハウンドだ」
この時、トラスはなぜ名乗ったのか自分でも分からなかった。
裏の世界では名前を知られるだけで確実に寿命を縮める。
ましてや追われる身のトラスならなおさらである。
それでも、何故か鯨には心が許せてしまうのであった。
「そうか。じゃ、しばらくの間よろしくな、トラス」
満面の笑顔を見せる鯨。
「あぁ」
しかめ面で応じるトラス。
そして2人を乗せたホバートレーラーは駆ける。
どこまでも広がる灰白色の砂の海を。
流れ行く時の中を。
いずれ裏の世界にその名を遺す2人、
トラス・ハウンドと蒼澤鯨はこうして出会った。
だが、彼らはまだ自分たちの運命に気付いてはいなかった。
そして長い長い旅の行く末を知っているのは、
いつの時代も砂と風だけであった。
<了>