GROUNDER外伝−鬼殺し−

サーーーー。
木々がざわめく。
凪いでいた風が流れ始める。
一気に間合いを詰める双刀の女の右手が閃く。
その右手を肩から斬り飛ばす鬼の大太刀。
そのタイミングを待っていたかのように
女の左の一刀が鬼の素っ首を叩き落す。
…ごとり。
重苦しい音だけが辺りに虚しく響いた。

-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----

トントントン。
ノックしても返事がなかった。
「ごめんくださ〜い」
声を掛けても返事がなかった。
「参ったなぁ、留守か」
そして何気なく家の裏手にまわる。
すると、そこは修羅場の真っ只中だった。

対峙する二人の人物。
一人は口髭をたくわえた壮年の男。
がっしりした体躯にレザーアーマーを纏い、
手には使い込まれた抜き身のロングソードが握られている。
そしてじっくりと斬りかかる機会を窺っているように見える。
一方、もう一人は華奢な体つきの女で、右腰に短めの刀を帯びている。
年の頃は20代の半ばといったところだろうか。
何故か右腕だけを西洋騎士の甲冑で完全武装しており、
金の縁取りと繊細なレリーフで装飾された黒鉄色の防具は鈍い金属光を放つ。
彼女は刀の柄に手を掛けることもなく、ただそこに静かに佇んでいる。

不意に男が動いた。
目にも止まらぬ程のスピードで女の間合いに侵入し、
その右腕を瞬時に斬り飛ばした。
…否。斬れなかった。
カラン。
乾いた音を立てて地に転がる無傷の腕当と篭手。
「…なるほど、速いな」
無感動に呟く女に右腕―肩口から下―はなかった、…最初から。
肩からぶら下げていた空っぽの腕鎧が外れて落ちただけだったのだ。
だが、男は別に驚いたような様子もなく足元の篭手を蹴飛ばす。
もちろん中に手など入っていないし、血が溢れ出すこともない。
「こんなハリボテで俺を騙せると思ったのか?
さっさと本性を現せ、バケモノ!!」
「…そうか、そういえばお主は我が腕のことを知っていたんだったな。
だがそれならなおさら、今の一撃で左腕なり首なりを落としておくべきであった。
次はないぞ。どうやら”鬼”が目覚めてしまったからな」
そう言うと、最後まで残っていた肩当をはずして背後に放り投げる。
それと前後して、なにやら辺りに禍々しい気配が漂う。
女の右肩にモザイク状の靄がかかったかと思うと、そこから蠢く物体が出現した。
あたかも異界から這い出して来たかのように。
靄が晴れてくるにしたがい、それの姿が明らかになってくる。
赤黒い色、いびつな造形をしているが、それは紛れもなく腕であった。
長さは女の背丈に迫るほどであり、分厚い筋肉に鎧われていた。
堅く握られた拳には六尺を超える長大な太刀があった。
そう、それは過去に”鬼”と呼ばれ怖れられていた者の腕。

目の前に突如現れた異形。凄まじい威圧感と殺気。
それでも男は怯まなかった。
彼はこの腕を、そしてこの腕の持ち主である女を討つ為にここまで来たのだから。
「そうだ、それでいい。今こそ家族の、村人の仇を討とうぞ!!」
深い憎しみと悲しみの篭る口調。
改めて剣を構え直すと、凄まじい形相で女へと突撃する。
だが、その遥か手前ではじき返される。
巨大な鬼の腕と、その腕に握られた大太刀の間合いは3メートル以上。
しかも女は絶妙なバランス感覚で、自分の体重以上はあろうかという
腕と刀を完全にコントロールしているのだ。
その刃の結界は容易に破れるものではない。
大太刀の切っ先付近で切り結ぶこと数合。
豪腕から繰り出される斬撃の威力に、男の剣は無数の刃こぼれを生じる。
それでも男は頑ななまでに打ち込み続ける。

女は無言。
男も無言。
ただ鉄のぶつかり合う澄んだ音だけが山の中に響き渡る。
何度も、何度も、何度も…。
一体どれほど同じことが繰り返されたか。
男が今までよりも大きく振りかぶる。隙が大きくなる。
そこへすかさず死の刃が襲い掛かる。
だが、男はそれを紙一重で避け、一気に間合い―結界―の中に侵入する。
大きく振りかぶったのはフェイントだったのだ。
そして今までの攻防で女の太刀筋を見極めていたのだ。
すべてはこの瞬間のために。
いくらコントロールできるとはいえ、重くて長い鬼の腕と大太刀を
振りまわすのならどうしてもその斬道は単調にならざるを得ない。
しかも女の華奢な体では、一度刀を振るえばその慣性を自力でキャンセル
することは物理的に不可能である。
防御に転じようとする女の大太刀に男の投げたマントが纏わりつく。
その間に男は己の間合いに仇敵を捕らえる。
ここですべてが終わったかに見えた。
しかし本当の勝負はこれからだった。

男は剣を振り下ろす。
女は少しも慌てることなく腰の小太刀に手を掛けると、左手一本で抜き放つ。
スピードは小太刀の方が微妙に速い。
だが男は勝利を確信していた。
男の立つ位置は小太刀の間合いの僅かに外。
そして大太刀の間合いの僅かに内。
そここそが女の間合いの唯一の死角なのだ。
幾多の死線を潜り抜けてきた彼だからこそ見極め、
そして辿り着くことができた必勝のポジション。
掠めてゆく小太刀をやり過ごし、刹那に女を斬り殺す……はずであった。
ガキン!
刃と刃がせめぎ合う。
小太刀の間合いの中、ほとんど鍔迫り合いという状態で。
「っな!?」
かろうじて斬撃を防いだ男は驚愕した。
ありえない。
ありえない踏み込みだった。
女の実力を過小評価しているつもりはなかった。
自分の実力を過大評価しているつもりもなかった。
それでも女の踏み込みは常軌を逸していた。
刹那にも満たない時間で完全に形勢は逆転した。
このままの状態では次の攻撃に転じられない。
それどころか女の二の太刀に殺られる。
そう判断したした男は即座に引き、再び間合いの間隙へと移動しようとする。
だがそのとき女は、男以上の速度で後方に飛び退っていた。
既に男の位置は大太刀の間合いの真っ只中だった。
ドシュッ!!
鈍く篭った音。
男の上半身は下半身と永遠の別れを遂げた。
止め処なく流れる血潮が大地を赤く染めた。
今、深き森に抱かれて、一人の剣士が死んだ。

しばしの間。
しばしの静寂。
それから一呼吸置いて、女は小太刀を鞘に収める。
それを合図にしたかのように、鬼の腕と大太刀が霞み、
出現したときと同様に何の痕跡も残さずに消滅する。
近くに転がっていた腕鎧を拾い、慣れた手つきで腕のない右肩に引っ掛け、
そこでようやく家の陰からこちらを見ている人物に声をかける。
「お主…さっきからそこで何をやっておるのだ?」

一部始終をじっと見ていた男―蒼澤鯨―は、はっと我に返り辺りを見回す。
その場にいるのは自分と、女と、物言わぬ屍が一つだけ。
「……えっ、…俺?」
「そう、お主だ」
「…もしかして、見てたらマズかったか?」
「……」
無言。
「…まさか『我が秘密を知った以上、生きては帰さん』
…なんてことは言わないよな」
「……」
やはり無言。そして無表情。
「じゃ、邪魔したな。…じゃあな!!」
爽やかな笑顔でそう言うと、鯨は全力疾走でその場を去ろうとする。
だが、3歩ほど進んだところで。
「まぁ待て。そんなに慌てるでない」
背後から声が掛けられる。
それには殺気の如き成分は全く含まれていないように思えた。
だから鯨は足を止めた。そしてゆっくりと恐る恐る振り返る。すると…。
「ははははは、そんなに怖がるな。
別にお主を取って食おうなどとは思っておらん。
お主は用があってこんな山奥まで入ってきたんだろう?
すまんな。遠路はるばるやって来た客人を外で待たせてしまうとは
我としたことが大失態だ。待っておれ、今鍵を開けるから」
先程までの血闘が嘘だったかのように陽気に笑いながら
有無を言わさず鯨の肩をがしっと掴み、玄関まで引きずってゆく女。
鍵を外すと引き戸を勢い良く開放する。
あまりのことに呆気にとられた鯨はそのまま家の中に吸い込まれて行った。

家の中は、何か不思議な感じだった。
玄関の土間から一段上がると、フローリングに絨毯を敷いた床。
壁は木の板をそのまま使ったもののようで、そこに数枚の掛け軸が下がっていた。
家具は和洋入り混じったものを使っているようだ。
部屋の中心にはこたつ。隅にはベッドと座卓があり、
何故か辺りには墨の匂いが漂っていた。
「いま茶を淹れるからそこに座っておれ。
ちょっと墨の匂いがきついかも知れんが、まぁ我慢せい。
仕事の途中だったものでな」
そう言いながら女はキッチンで湯を沸かし始める。
鯨は言われるままにこたつの脇に腰を下ろす。
することもなく再び部屋の中を見回す。
目に付いたのは掛け軸だった。
水墨画。どこかの海の風景を描いたもののようである。
力強さと繊細さが絶妙なバランスで互いを引き立て合っている。
歴史に残る名画と言うほどではないが、
それでも多くの人々に感動を与えるであろう出来。
鯨はなんとなくこの絵の作者が、大太刀と小太刀を自在に操り、
今は台所で茶の支度なぞをしている少し変わった女自身
なのではなかろうかと思った。

ほどなく、漆塗りの盆に白磁のティーポットとカップ、
それに茶菓子を載せた女が戻って来た。
「茶菓子は羊羹しかないが、構わぬか?」
「…ああ」
鯨はあまり物事にこだわらないたちだが、女も同様らしかった。
やわらかな香りのする紅茶をカップに注ぎ、紅茶と羊羹を鯨に差し出すと、
女もこたつに入った。
「さぁ、遠慮せずに食って飲め」
言いながら女は自分の羊羹に手を伸ばす。
「あ、あぁ」
鯨もやや圧倒されながらカップに口をつける。
しばし無言でティータイムの時が流れる。
そして、二人とも羊羹を食べ終え、紅茶を楽しんでいるところで
女が口を開いた。
「そうそう。それで、お主はどうして我を訪ねてきたのだ?」
「あぁ、実はちょっと人を探しててな。
久流(くりゅう)って名前の二刀流の男なんだが。
麓で”二刀を操る鬼神”の噂を聞いたので、
もしかしたらと思ってこの山を登って来たんだが…」
「噂の鬼神は尋ね人ではなく我のことだった、と」
「まぁそういうこった。でもまるっきり無駄足でもなかったぜ。
よそじゃ絶対にお目にかかれないような剣技を拝むことができたからな。
…大太刀と小太刀による鉄壁の間合い。
大太刀の威力と小太刀の速さ。
大太刀を振った反動を利用しての神速の踏み込み。
そしてすべてを完全に制御する体さばき…。
あのおっさんも相当の使い手だったみたいだが、あんたには遠く及ばなかったな」
「ほう、そこまで分かるとはお主も只者ではないな。
では問うが、お主なら我の間合いをどう破る?」
久々に武芸いついて語る相手を得て、女は上機嫌だ。
「そうだな。大太刀と小太刀の間合いの僅かな隙を突く、
というおっさんの戦法は悪くないと思ったんだがな。
それでダメとなると、零距離まで接近してぶん殴るぐらいしか思いつかないな。
それなら小太刀といえど満足に振るえないだろ」
「はっはっはっは……。やはりお主はたいした奴よ。
よもや零距離戦を考えるとはな。
できればお主とは戦いたくないのお、本当に間合いを破られそうだ」
「いやいや、ただ思っただけさ。実際に出来るかよ、そんなこと!
大太刀の間合いの中に入るのも困難なのに、
更に小太刀に間合いも突破しなくちゃならないんだぞ」
「…謙遜だな」
「そんなことないって。……あ、でも。あんたの剣技の根底を成してる、
あのとてつもなくデカい腕と大太刀は何なんだ一体?
急に現れたり、消えたりしてたみたいだけど」
「あれはな、むかし我が鬼を殺したときに、そ奴から奪ったものだ」
「鬼!?」
「そう、鬼だ。4メートルを超す巨大な体躯、一対の角、
殺気に満ちた顔、そして握られた大太刀」
「……」
「せっかくだからその時の話をしてやろう。
わざわざこんな山奥まで来てくれたのだ、そのまま帰すのは悪いからな」
そして女は語りだした。
少し遠い目をして、少し遠い過去のことを。

あれは我にまだ人間の右腕がついていた頃のことだ。
己の剣腕を磨く為に諸国を旅していたのだが、とある村で依頼を受けた。
『山奥に棲む鬼を退治してくれ』と。
初めはどうせ山賊か何かだろうと思っていた。
だが、山の中にいたのは紛れもなく鬼だった。
幾多のつわものどもとの闘いの果てにかなりの傷を負っていた鬼。
それでも人知を超える強さを有していた鬼。
我は数時間に及ぶ死闘の末、右腕を失いながらも遂に鬼の首を落とした。


-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----

「はぁ……」
長い呼吸とともに、女はゆっくり膝をつく。
今までの死闘の緊張感から開放され、
一気に疲労と激痛が襲ってきたからである。
背後には首のない鬼の巨体があった。
死してなお刀を強く握り締め、しっかりと大地に立つその姿から感じられるのは
大いなる満足感……そしてかすかな未練?
「…ふっ、お主はまだ闘い足りぬというのか。…修羅よのう」
そう呟くと女は、おびただしい量の血を流し続ける
自分の右肩の手当てを始めた。
手当て、といっても右腕まるまる斬り落とされているのだ。
服の裾を破ってそれで肩の上の鎖骨下動脈を縛り、止血する以上のことは出来ない。
早く山を降りてしかるべき処置を施す必要があった。
と、そのとき。
女は辺りに漂う無数の気配を感じた。
目だけ動かして様子を窺うと、木の陰に隠れている50人ほどの
人間の姿が見て取れた。
彼らはしばらくの間そこでなにやら話し合っていたが、
女が動けないと判断したのだろう、やがてゆっくりとその姿を現す。
それは麓の村の村人たちだった。
槍、刀、弓矢、銃と手に手に武器をとり、
数メートルの距離をあけて女をぐるりと取り囲む。
彼らは一様に怯えたような目でこちらを見ている。鬼ではなく女を。
リーダーらしき若い男が無言で軽く頷く。
そしてそれを合図に、村人たちの怯えは殺気へと変化した。
女は瞬時に悟った。彼らの目的を。

「…なるほど、鬼を討った我を殺しに来たか。
己よりも強き者を畏怖し、それを排除しようとする。
全ては自らの生きる為。それこそが人間の性か…」
「……」
村人たちは何も語らない。
女はゆるりと立ち上がると、残った左腕で再び小太刀を握る。
「…だが我とて黙って殺される気はないぞ!」
そして女は戦った。
向かって来る者の首を斬り、腕を斬り、足を斬り、血道を開こうとする。
しかし、いかに女が鬼をも屠る達人だとしても、
鬼との死闘のあとでもはや体力は残っていない。
しかも主に肩からの大量出血によって動きは鈍り、目は霞み、
刀を振るうどころか立ってることもおぼつかなってくる。
15人目を斬り捨てたところでついに力尽き、
鬼の巨体にもたれかかるように倒れる。
包囲の輪が急速に縮る。
あらゆる武器が女に狙いを定める。
かすかな意識の中で女はその光景をぼんやりと眺めていた。
自分が死ぬのだということがはっきりとわかった。
だが、死を前にして心に浮かんだのは恐怖でも悲しみでもなく
……『まだ闘い足りない』という想い。
「ふっ…、我もやはり修羅であったか」
自嘲気味に呟く女。
その傍らには、首から流れる血に全身を染めながらも、
いまだ直立不動の鬼の姿があった。

女はふと思い立ち、もの言わぬ鬼に語りかけた。
そのとき何故そんなことをしたのかは女にすら分からない。
だが、それが必然であると感じたのだ。
「…のう。お主を殺しておいてこんなことを頼むのもなんだが…
…死してなお消えぬお主の闘争心と力、我に預けてはくれぬか?
我が生き延びた暁には、お主に更なる猛者と闘う機会を与えようぞ」
すると驚くべきことに、死んだはずの鬼が己の右腕を女の前に差し出したのだ。
あたかもその腕を、そして握られた大太刀を使いこなしてみろと言わんばかりに。
女は渾身の力でその腕を肩口から斬り落とし、
その腕の切り口を自分の右肩へと押し付ける。
そこでまたしても信じ難い現象が起きた。
鬼の腕の切断部付近の筋肉が変形し、
触手のようにのたうちながら女の肩に食いつくように絡みついたのだ。
そしてそれは最初から女の体の一部だったかのように、
その場所にしっかりと根を下ろす。
互いの血管が繋がり合ったのだろうか?
肩からの流血も徐々に少なくなり、やがて完全に止まった。
肩を伝って女の中に入ってくる鬼の持つ修羅の心。己の持つ修羅の心。
その二つがいま、瀕死の女を立ち上がらせた。

大太刀の一閃で三人の男が臓腑をぶちまける。
「ひっ!」
短い悲鳴が聞こえる。
あまりのことに呆気に取られていた村人たちは、今の一撃で半狂乱状態となった。
奇声をあげながら手にもった武器でがむしゃらに女―バケモノ―を攻撃する。
彼らのその姿は何かに取り憑かれるようにしか見えなかった。
女はそれに構わうことなく、確実に敵対者の頭数を減らしてゆく。
飛来する銃弾と矢を小太刀で払い落とし、
大太刀によって一度に複数人を絶命させる女に、いまや一分の隙もなかった。
それは……ただ、一方的な殺戮であった。

包囲網を壊滅させて山を降り、村に辿り着くと、
満身創痍の女を待っていたのはまたしても武装した村人達。
皆、同じような目で女を見つめそして襲い掛かってきた。
女は殺した。向かってくる者は老若男女を問わず。
すべては己が生き延びる為。鬼との約束を果たす為。
最後の一人が倒れたとき、女に語りかける声があった。
それは脳に直接響く…鬼の声。
同ジ修羅ヲ内二秘メタル者ヨ。
儂ガ弱者ヲ斬ルノハコレガ最後ダ。アトハ己ノ力デ生キ延ビヨ。
儂ハマダ見ヌツワモノトノ闘イニ備エ、シバシ休ムトシヨウ。
約束…違エルナヨ。
後にも先にも鬼の声が聞こえたのはこの時だけだった。
そして腕は大太刀もろとも霞のようになり、やがて完全に消滅した。
あとには何も残らず、肩口には鬼に斬られた赤黒い切断面が見えるものの、
そこから血が流れ出すことはなかった。
「約束…か」
そして女は去っていった。
血の匂いを纏い、村に多くの屍とわずかな生存者を残して…。

-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----

長い話を終えて、女はようやく一息つく。
「とまぁそういう話だ。
結局それからは鬼の腕と共に世界を回って、決闘三昧。
今では歯牙ない水墨画家に落ち着いてしまったがな。
ちなみに、さっきの男は我が滅ぼした村の生き残りだと言っていたな。
おそらくあやつはまだ幼かったので、我に向かって来なかったのであろう」
「…なるほど、そんなことがあったのか。
にわかには信じられないが、俺も実物見てるんだもんなぁ。
しかしあのおっさんがガキの頃の話だとすると、あんた一体何さ…」
ヒュン!
羊羹用の竹の楊枝が首筋を掠めていった。
「おなごに歳を訊ねるとはいい度胸よのう、お主」
にやり。
「す、す、すみません」
「まあ実のところ我も自分の歳などとっくの昔に忘れてしもうたわ。
鬼の腕を得てからは何故か外見上は歳を取らなくなってしもうたからな。
はっはっは。」
豪快に笑いながら鯨のカップに二杯目を注ぐ。
篭手をした右手でポットの柄を持ち、左手で蓋を抑えながら。
「そういえば、あんた。今の話では普段は右腕無いんだろ。
なんでその篭手は動くんだよ?」
考えてみれば不思議なことである。
鯨が目にしたように、これは確かにハリボテなのだから。
(ハリボテと呼ぶにはいささか豪奢で精巧すぎる代物だが)
しかしまるでその中に手があるかのようにスムーズに動いている。
家の鍵を開けるときも、お盆を持つときも、紅茶を淹れるときも、
危なっかしい感じは全くなかった。
「あぁ、これか?
これは我が鬼の腕を得て間もない頃、とある旅人に貰ったものだ。
ツルハシ担いでヘルメットを被った妙な輩でな。
そやつによるとなにやら、鬼の腕から溢れてくる”マテキヨウソ”
とやらを使って、持ち主の意志通りに腕鎧が動くらしい。
奴は自分のことを悪魔だなどと言っておったので、
案外本当に魔法の道具なのかも知れんな。
まあ理屈はどうあれ、日頃から鬼の腕を出してるわけにはいかぬ
我としては非常にありがたいことだ」
そう言いつつ右手を開いたり閉じたり、肘を曲げたり、肩を回したりしてみせる。
「ふ〜ん、魔法ねぇ」
「なんだ、あまり驚かんな」
「俺は今までにも魔法を見たことがあるからな」
「ほう、それは興味深い。話を聞かせてくれぬか?」
「あぁ、いいぜ。あれは俺の…」
そして二人の茶飲み話は続いてゆく。


夕日が山の端に落ちる頃、鯨は女の家を辞し山を降りていった。
振り返って手を振る鯨の姿が見えなくなるまで見送っていた
女の周りは、すぐに濃厚な闇と夜露の匂いに満たされてゆく。
女は鋼鉄の肩当の畝(うね)を指でなぞりながらそっと呟く。
「やはり修羅の性は抑えられぬものだな…。
あ奴と話している間も血が騒いで仕方なかったわ。
…お主もそうだったであろう?」
それは鬼の腕への問いかけ。
だが、異界で息を潜める異形の腕は何も答えない。
「今の作品が描き上がったら、また旅に出るとするか。
あ奴―そういえば最後まで名前を聞き忘れてたな―を探すために。
『闘いたくない』とは言ったものの、実のところやはり死合ってみたいからな。
…ふっ、修羅は死ぬまで、いや、死んでも修羅だということよのう」
鬼を殺し、その腕を奪いし者。
その飽くなき闘争心と超絶の剣技を知る者は少ない。
ただ時だけが修羅の生き様を克明に記しつづけてゆく。
いつまでも、いつまでも、いつまでも…。
<了>

back