「だから、お断りしますって言ってるじゃないですか!」
微かに吹く風に乗ってそんな声が聞こえてくる。
辺り一面に広がる、傾いた建造物の残骸。
灰白色の砂に少しずつ侵食されていく。
かつては賑わっていたであろう街は、今や見る影も無い。
すべては過去―HAという兵器が世を席巻していた頃のはなしだ。
そしてこの広大な砂漠、ファームス・ベルトの辺境で、言い争いをしている一組の男女があった。
いや正確に言えば、嫌がる女を男が無理やり口説いているといったところだろう。
先程からもう10分くらい押し問答が続いている。
男は30代前半くらいで、がっしりした体格。
左腰にはロングソードを差し、薄手だが頑丈そうな服を着ている。
そしてその目つきは明らかに堅気の人間のものではなかった。
一方女の方はというと、年は20歳くらいでやや背は低めのようだ。
ボロボロのマントを羽織り、艶やかな黒髪をアズキ色もリボンでとめている。
いかにもこの地に迷い込んできたという感じで、
男の強引な誘いにほとほと困り果てている。
「私は先を急ぎますから…」
そう言って、男の手を振りほどこうとするが、男の方は更に力を入れ、女の手首を掴むのだった。
「そんなに嫌がることはないだろ。別に何かが減るわけでもないし。
いいからついて来いって言ってるだろ、かわいこちゃん。」
そして空いた手で女のリボンに触れようとする。
その瞬間だ。
男の体が大きく後方に揺らぐ。
今まで、それでも大人しくしていた女が、突然ムキになって男を突き飛ばしたのだ。
「リボンに触らないでください!!」
半分わめくような声でそう言うと、砂の上を駆け出す。
だが砂漠歩きに慣れていないのであろう、数歩進んでは転び、
そして立ちあがってはまた懸命に走り出す。
走っては転び、立ちあがってはまた走り…。
そんなことを何度繰り返しただろうか?
日はすでに高々と昇り、灰白色の世界に強烈な熱線を浴びせかけている。
渦を巻く風が砂塵を舞い上げながら、そこら中を駆け回っている。
そして朽ちたコンクリートの陰に座り込む女の姿があった。
額の汗を拭いながら、ようやく一息つく。
あれからただひたすら走り、ここまで逃げてきた。
だがこれからどうするのか?
そんなことを考えつつも、疲労と暑さのため、徐々に眠気に襲われる。
日陰のひんやりした砂の上に脚を投げ出し、いよいよ寝ようかというとき、
…追跡者は来てしまったのだ。
「さっきはなめたマネをしてくれたな」
ゆっくりと歩み寄ってくるのは他でもない、先程の男である。
多少汗をかいているが、息が切れていないところを見ると、歩いて追ってきたようだ。
もっとも彼のような屈強な男にとって、
砂漠で追いかけっこをするなど造作も無いことなのかもしれないが。
「あんまり俺を怒らせないほうがいいぞ。
俺は『黒魔刃のトラッド』って言う、裏社会でも名の知れた殺人狂だからな」
そんなことを言いつつ、女の頬をかすめて後ろのコンクリート壁に剣を突き立てる。
黒く染められた刀身は禍禍しく、何物をも映し出しはしない。
そしてその剣の持ち主も、それに相応しい殺気を漂わせてこう続ける。
「これ以上痛い目に遭いたくなかったら、大人しく俺についてくるんだな。
え、どうなんだい、かわいこちゃん?」
頬から流れた血が顎へと伝っていき、ゆっくりと砂に吸われてゆく。
壁にもたれて座っている上、目の前に立ちはだかられてはもはや逃げる術はない。
それでも気丈にトラッドと名乗る男を睨み返す女。
無駄な抵抗。まさにそれであったかもしれない。
「いい加減、観念するんだな」
下卑た笑いを浮かべるトラッド。
女の元にしゃがみこむと、手始めにさっきはずし損ねたリボンに手を掛ける。
ふわり、と音もなくほどけるアズキ色のリボン。
肩に落ちかかる漆黒の髪。
そしてその瞬間――たしかに何かが変わった。
「私はたしかに、リボンに触れるなと言いましたよ。
それにも関わらずほどいてしまうというのは、命が惜しくないということですね…」
微かな声が聞こえたような気がした。
だがその時にはもう、トラッドの体は5メートルほど後方に吹き飛ばされていた。
女の放った強烈な蹴りが鳩尾に決まったのだ!
女は蹴りの勢いを利用して颯爽と立ち上がる。
束縛を解かれた髪は風になびき、その瞳には冷たい光が宿っていた。
体からは、今までとは比べものにならないくらいの強い気を放っている。
いや、それは殺気あるいは瘴気といったものかも知れない。
「こ、このアマ…」
一方のトラッドもようやく態勢を立て直す。
あれだけの一撃を食らってすぐに立ち上がれるのは、流石というべきであろうか?
裏社会で名を知られているという本人の弁もまんざら嘘ではないようだ。
そしてすかさず殺しの相棒である黒魔刃を構える。
「可愛がってやろうと思ったが、もういい!
死ね、今、この場で!!」
こちらも殺気を辺りに漂わせて、生意気な女を斬殺せんと精神を集中させていく。
間。
ほんの僅かの間。
踏みこみ。
そして斬撃。
仕掛けたのはトラッドの方だった。
幾多の命を奪ってきた黒魔刃が唸りを上げて振り下ろされる。
そこから次に斜め上方への斬り上げ、さらに横薙ぎへとつなげる連続攻撃だ。
だがそれらの斬道は、いずれも紙一重のところで女に回避される。
超絶なスピードとタイミングで次々と攻撃を繰り出すトラッド。
そしてそれを、更なる妙技でかわし続ける女。
その様子はさながら、永遠の中で行われる舞踏会のようであった。
美しく華麗なる踊り。
だがそれは命というステージの上でのみ許される、ひどく儚いものなのである。
こうして2人の舞は、トラッドがあることに気付くまで続いたのであった。
―なんだこれは?―
直感が異変を告げる。いままでの彼の血塗られた生を支えてきた第6感である。
おかしい。何かがおかしい。
確かに目の前の女は、彼のあらゆる攻撃をかわしてきている。
だが、それはさしたる問題ではない。
向こうが疲れてくれば、いずれ動きが鈍って黒魔刃の餌食になるだろうし、
そんなことは今までに何度もあったことだ。
彼は殺人狂の自惚れ屋だが、己の力量を把握しているという点においては
紛れもなくプロの殺し屋である。
そんなことで焦ったりなどはしない。
問題はもっと別のところにあるのだ。
もっと別の…根本的な…。
不意に攻撃をやめ、正眼に構えるトラッド。
そして辺りに油断なく目を向けることによって、ようやく異変の正体を突き止める。
すなわち―立ちこめる黒い瘴気を―
それは徐々に濃度を増して、やがて視界を妨げるほどになってくる。
「こ、これは一体…?」
「…闇」
トラッドの質問に答えるとも、独り言ともつかない口調で女はこう告げる。
見ればその漆黒の髪から黒い瘴気―闇―が湧き出ているではないか!?
そう、彼女はトラッドの攻撃をかわしながら、辺りに闇を振り撒いていたのだ。
「人は火を扱うようになってようやく『人』となることができたそうだが、
それは同時に、闇との戦いを放棄したことでもある。
闇の恐怖から逃れる為に、火という目先の安楽に逃避したのだ。
それゆえ人は闇に弱い。光が無くては生きてゆけない。
闇は人の心を蝕み、やがて死に至らしめる。
今の人間では闇の中で生きていくことは出来ない。
ただ取りこまれ、その深淵に溶けてゆくのみ…。」
そしていよいよ濃くなった闇は、夜よりも暗き世界にトラッドと女を閉ざすのだった。
「は、何が闇だ。聞いてみれば大したことない!
気配は感じられるし、闇夜の戦闘はもとより得意とするところだ。
ただ、おまえの切り刻まれる様が見えないのが残念だがな」
そう言いつつ、再び女へと斬りかかる。
疑念が晴れてしまえば、どういうことはない。ただのトリックだったというわけだ。
先程とほとんど同じペースで連続攻撃を繰り出してゆく。
暗闇を全く苦にしていないところなど、いかにも暗殺のプロフェッショナルである。
そして女の方も先程と同じペースですべての攻撃を回避する。
また繰り返す、舞踏会。闇の中での2人っきりの舞踏会。
だがそれは、意外にも早く終わりを迎えた。
「な、何故だ、ちくしょう!何故当たらないんだ!!」
トラッドの動きが急激に鈍くなる。
無駄な踏み込み、腰の入っていない斬撃が増えてくる。
焦り、苛立ち、そして何よりも闇への恐怖が彼の心を徐々に侵食しているのだ。
「はぁ、はぁ。何処だ、何処にいる!出てきやがれ卑怯者!!」
ついにはその動きが止まる。
「あなたの正面、2歩前です。1歩踏み込んで剣を振れば間違いなく私を両断できますよ。
気配は感じているのでしょう?来たらどうですか?」
闇の中から響く声。
それは確かに2歩前の空間からのものらしかった。
視界は利かなくても他の感覚器はまだ正常に機能している。
そして手には相棒の黒魔刃がある。
相手を殺すのに何の問題があろうか?
「ふ、ふざけやがって…」
大きく息を吸い、そして吐く。剣を大上段に持ってゆく。
準備は万全だ。
あとは1歩踏み出し、その剣を振り下ろせばいいだけだ。
そうすれば生意気な女は死ぬ。そしてこの鬱陶しい闇ともオサラバできるのだ。
…あと1歩踏み出せば。
…あと1歩。
…1歩。
しかしそれを踏み出すことはできなかった。
「殺人狂とか言っていた割には意外に臆病ですね。本当に暗殺者なのですか?」
「な、なめやがって…。
俺は今までに50人以上の人間を…暗殺してきたんだ!
貴様みたいなペテン師とは…違ってな!!」
いきがってみるものの、声はどこか震えているように思えた。
まるで何かに怯える幼子のように。
「50人ですか…、私はその数百倍の人間を殺してますよ。
父は悪魔、母は人間。小さい頃から『悪魔の子』と呼ばれ、母はやがて殺された。
それから組織に引き取られ、『力』によって数多(あまた)の命を奪ってきた。
それしか出来ることがなかったから。
その間、一度も光射す世界に出たことはなかった。
私は光を見てみたかった。だから組織を消して外の世界に出たんだ。
『力』を封印して、ひっそりと人を殺さずに生きていく為に。
それなのにあなたは、その封印を解いてしまった…」
完全に独り言モードに入ってしまった女は、さらに続けた。
「そう、封印などしても無駄だったんだ。
一度闇に染まったものは、二度と闇から抜け出すことなんて出来なかったんだ。
そして、闇は人の心を蝕み、やがて死に至らしめる…」
「ふん、ならおまえも…闇に喰われて…死ぬってか?」
あえぎながらも何とか口を挟むトラッド。
「そう。長い間、闇の中にいた私はもう長くは生きられない。
でも、それは構わない。幾千の命を奪ってきたことがそれで少しでも償えるなら。
それに、闇と共に生き、闇と共に死ぬのが私の宿命なのだから。
光の中にあって暗く、闇の中にあってなお暗い。
そう、私は『澱んだ闇を纏う者』……」
長い語りを終えた女―澱んだ闇を纏う者―はひとつため息をつくと、
今度は目の前に立っているであろう男―黒魔刃のトラッド―に向けて言葉を掛ける。
闇の中で立つ二人の形勢は、今や完全に逆転していた。
「さぁ、1歩踏み出す決心はつきましたか?」
語り口は穏やかだが、彼女の強大な気は色濃く立ちこめる闇という形を取って
トラッドの元へとまとわりついてゆく。
「く、くそ…。何が『悪魔の子』だ。何が『澱んだ闇を纏う者』だ!
この闇さえなければ、人間の出来損ないに過ぎないのに……。」
もはや彼に、踏み込む勇気と気力があろうはずも無い。
剣を支えにかろうじて立ち、負け惜しみを言うのが精一杯である。
「この闇さえ、この闇さえ…」
そのときだった。
トラッドの視界が急に開ける。
あまりのまぶしさに思わず目を閉じてしまう。
しばらくして恐る恐る目を開け、徐々に明るさに慣らしていくことで
ようやく状況を把握する。
彼とその2歩前にいる女を取り囲む直径10メートルほどの空間から
闇が消え去っているのだ。
そしてそこには頭上から、いつもと何も変わらない砂漠の熱い日差しが照りつけているのだ。
「闇はもうありません。これで文句はないでしょう?」
この言葉を聞いて、トラッドはようやく理解する。
バカな女が闇を取り除いて、みすみす自分の命を捨てようとしているということに。
そして、彼が容易に彼女を殺すことが出来るということに。
そうなるとすることは一つだ。
「お人好しめ、闇さえなければこっちのものだ!!」
再び剣を大上段に構えると踏みこみながらの斬撃を加えようとする。
しかし…。
手が、脚が、全身が震えて思うように動かない。
懸命に動かそうとするが、硬直が解けないのだ。
まるで、まだ闇の中にいるかのように。
それでも全身全霊をこめて雄叫びを上げると、最後の一歩を踏み出していく!
「でえええええぇぇぇーーーい!!!」
それはもはや気合などではなく、
むしろ恐怖に耐えられなくなった精神の暴走といって良かった。
振り下ろされる剣の斬道はめちゃくちゃで、1歩前にいる敵にさえ当たらない。
数歩引き下がった相手に向けて駆け出す。
攻撃!!
しかしその瞬間に、相手は彼の頭上に飛びあがった。
そのまま両断すればそれで終わりのはずなのに、
怯えた心は無意識のうちに防御へと転じてしまう。
頭上で刃を上にして水平に構えた黒魔刃。
そこに振り下ろされるのは手刀。
女の小さな右手だった。
そして…。
カキ―――――ン!!!
黒きロングソードがガラス細工の如く粉々に砕け散った!!
「く、黒魔刃が……」
だが、相棒の心配をしている場合ではなかった。
剣を砕いた手刀は、そのままトラッドの頭蓋を叩き割った。
と同時に、振り下ろされたもう一方の手刀が、身体を逆袈裟に切り裂いてゆく!
血。
自分の血。
今まで多くの人間の血を見てきたはずなのに、
何故か自分の血を見ることがとても不思議に思えた。
そしてその心を最期に覆っていったのは、
皮肉にもあれほど恐れていた闇であった…。
そして消えゆく意識の中で微かに聞こえたのはこんな声だった。
「一度闇に染まったものは、二度と闇から抜け出すことはできない…」
目の前で血を吹いて倒れる人間。
その血をしこたま吸った自分の両手。
そして髪を媒介にしてあたりに広がる澱んだ闇。
すべてはいつものことだった。
何の迷いもなく闇の中を進み、いつものリボンを拾い上げる。
いつも血みどろの手で結んでるリボンは、いつしかアズキ色に染まっていた。
元の色などもう覚えてはいない。
左手で束ねた髪に右手でリボンを巻いてゆく。
きゅっと結ぶ。
それが合図だった。
漂う黒い瘴気が急速に薄らぎ、やがて残り香すらも風に消えてゆく。
もうそこには闇はない。
あるのは灰白色の砂と、少し傾きかけた太陽の光。
それに幾ばくかのコンクリートの残骸だけである。
そんなありふれた風景の中で女は、後悔と共にこう呟くのだった。
「…闇の氾濫。光ある世界で生きるには、これを抑えないと…」
そして熱い砂の上に、1歩、また1歩と足跡を刻んでゆくのであった…。
巨大なホバー・トレーラー。
その助手席に乗り込んできた男に、運転席の男が声を掛ける。
「ずいぶん早かったじゃないか、鯨」
「ああ」
着物の裾の砂を払いながら曖昧に答える。
「実はな、行ってみたら既に賞金首が殺されてたんだよ。
『黒魔刃のトラッド』。結構な賞金額だったんだけどなぁ…」
そして愛用の賞金首リストにチェックを入れる。
「…それはやはり、副業はほどほどにして
本職をしっかりやれってことなんじゃないのか?」
「うん、そうなのかなぁ。…まあいいや。じゃあトラス、目的地に着いたら起こしてくれ」
「…やれやれ、相変わらずだな」
そう言うと運転席の男―トラス・ハウンド―は前髪を掻き揚げながら
エンジンキーを捻り、ホバー・トレーラーを発進させる。
世界で最も速いであろう車両はその静かなエンジンの回転数を上げ、
すぐに砂の海へと滑り込んでいった。
果てしない砂漠で配達業を営む、蒼澤鯨とトラス・ハウンド。
彼らは、車窓の外を流れる景色のなかに一人の女性がいたことを知らない。
その女性が『闇』という名の宿命を背負って歩きつづけているということも…。
<了>