五剣伝−人界編−
第零話〜出陣〜

「おまえたちには人界に行ってもらおう」
湿った暗闇の中、低い声が響く。
その反響から石造りのだだっ広い部屋のようであるが、
そこには窓もなければ明かりもない。
ただ、よどんだ空気に囲まれて佇む者たちにとって、
それは何の意味も持たなかった。
「俺達が命令通りに動くとでも思っているのか?」
冷たい口調で即座に返す。だが、別に先の言葉に反感を持っている様子はない。
おそらく予想していた命令だからだろう。
それでもひとこと言わねば気が済まないのが
この男、水王ファウストなのである。
彼には命令という概念が存在しない。することも、されることも。
「別に構いませんよ、僕は」
もう一人の声が呑気に答える。表情は覗えないが、何やら楽しげである。
あるいは命令について勘違いしているのかもしれないが…。

目が慣れてくれば、そこにいるのが椅子に腰掛けた線の細い男と、
ローブ風のものを着て立つ二つの人影だとわかるだろう。
「”あれ”の大まかな位置がつかめた。
わかっていると思うが、あれが奴等の手に渡るのは面白くない」
「むりやり奪い取るんですよねっ♪」
早く動きたくて、うずうずしている。
「その必要はない」
「ただ、守れということか。そして反乱分子の抹殺……」
「まぁそういう事だ。理解できたなら、さっさと行け」
それだけ言うと、声の主は足を組み直し、目を閉じる。それを合図にした
かのように、急速に静寂が辺りを満たしていく。
5秒ほど後、かすかな舌打ちを残して水王が虚空に消える。
「じゃぁ行ってきます」
つづいてもう一人も去っていく。
わずかに舞い上がったほこりがおさまった時、最後の気配も
すでに消えていた。
ここは魔界第一層のグロスター城……。

「お帰りなさいませ、ローウェン様」
まだ幼さの残る副官が、虚空から現れた人影−先程の玉座の男だ−に声を掛ける。
「ああ、グリフか。待たせたな。奴等は素直に出て行ったよ」
優しげに答える魔界支配者ローウェン。
水王、火王と対していた時とは大違いである。
「僕は納得できません!同じ四王として、奴等の態度は目に余るものがあります。
今は従っていても、いずれ裏切るはずです。ならばその前に…」
彼の苛立ちに呼応するかのように、巻き起こる風。
渦を巻き、弾け、そして渦に戻る。
絨毯は毛を逆立て、カーテンは激しく乱れ踊る。
「落ち着け、風王グリフよ。暴れるんなら自分の部屋でしろ」
ほんの一瞬、強烈な殺気が辺りを走る。
部屋に戻る静寂。風王の全身に冷たい汗。
だが、ローウェンは温和な表情で、こう続けた。
「おまえは、私がファウストたちと魔将に甘いと言いたいんだろう。
確かに奴等は、悪魔の結束の妨げになるし、
そういう意味ではお前の意見はもっともだ。
だが、あの桁外れの力を失うのは惜しいし、
だいたい抑えられる者もいないだろう。
だったら勝手に暴れさせておく方が、我々には有利ではないか?」
「も、申し訳ありません。そのような深い考えがあるとも知らず…」
今にも泣き出しそうな顔で、慌てて土下座しようとする。
それを制して、
「まあいいさ。それより最近、おまえは働きづめではないか?
たまにはゆっくり休んだらどうだ?」

うやうやしく礼をする若者を送り出すと、窓の外を眺める。
日の射さない魔界の空は、今日も黒い。
薄明かりの部屋で一人、天を目指すものはこう呟いた。
「”五剣”のうち三本はこちらにある。負ける戦ではあるまい…。」
<了>

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