小さな窓から差し込む夕日が部屋を満たしていた。
絶え間ないゆるやかな振動に身を任せながら、
橘遙はぼんやりと考え事をしていた。
これまでのこと。
これからのこと。
自分のこと。
そして今日まで共に旅をしてきた仲間のこと…。
ここは王都メルティンからトウホウに渡る船の中。
明日の早朝の出発に備えて、遙は既に乗船し、
自室のベッドでくつろいでいるところだ。
ネロスとシェリーの2人とは今日の昼食後に別れ、今は一人。
寂しさがないわけではないが、今生の別れというわけではない。
一度トウホウに渡り、再びここに戻ってくれば
また会えると信じていた。
このときはまだ。
不意に大きな振動に襲われる。
ベッドから飛び起き、とっさに刀の鞘を握る。
耳を澄ませ、周囲の気配を探る。
だが何も起こらない。
少なくとも至近距離での出来事ではないようだ。
やや用心しながらドアを開ける。
廊下を駆け、デッキに上がる。
そしてそこから見えたものは…。
赤い街並。
それは夕焼けの優しい赤ではなく、もっと禍々しい色に染まっていた。
王城から少し離れた下町の辺りだろうか。
盛大に炎を上げて燃え盛っていた。
地震か?
しかし燃えているのはその辺りだけで、他の場所には異変は見られない。
地震なら他のところからも火の手が上がっていておかしくはない。
では先程の振動は一体…。
その時、空の一点で何かが瞬いた。
白っぽい輝き。
それは微かな尾を引きながら真っ直ぐ地上に落下した。
そして大地が激しく揺れる。
先程と同様の揺れ。
それは甲板の上でも例外ではなかった。
多くの人がバランスを崩し、危うく海に落ちそうになる。
各所で上がる悲鳴。
遠くで建物の倒れる音。
立ち上る煙と炎。
胸騒ぎがした。
何かが起こっている。
それも尋常ではないことが。
「ネロス!」
真っ先に浮かんだのはそのことだった。
あの白い光は恐らく魔法。
ならば狙われているのは…。
そう思ったときにはもう体が動いていた。
助走をつけて甲板の端を蹴ると、
何の迷いもなく数メートル下の埠頭に飛び降りる。
着地の衝撃を全身で巧みに緩和し、すぐさま走り出す。
港から市街地へ入り、大通りに沿って爆心地に向う。
猛スピードで流れてゆく夕暮れ街並。
街中で行き違う多くの人たちも、風景の一部に過ぎなかった。
能天気に野次馬をする人。
うろたえて右往左往する人。
危機を感じて避難する人。
恐怖に怯え地面にうずくまる人。
そして道の中央に佇む見覚えのある人影。
「!!」
咄嗟に勢いを殺してその者の前で立ち止まる。
「…待っていたぞ」
その者は感情のこもらない口調でそう呟いた。
黒装束を身に纏い、微かな殺気を放つその者は人間ではなかった。
水王ファウストと名乗り、遙に魔界の凶刀―残霧―を託した悪魔。
「すみませんが急いでるんです。そこを退いて下さい」
「この先に行くのはやめておけ。行ったところで貴様には何も出来ん」
その一言で確信する。
「…やはりネロスがらみでしたか」
「…」
無言。
だがそれが肯定を意味しているのは明らかだ。
「忠告はありがたいですが私は行きますよ。
たとえ何も出来なくても友に危険が迫ってるのに、
じっとしているわけにはいきませんからね」
「…そうか、ならば俺を殺してから行くんだな」
言葉と同時にすらりと腰の剣を抜き放つ。
レイピアに近い形をしたその剣の刀身は、
細身ながらもしっかりとした造りになっている。
両の刃も鋭く研ぎ澄まされており、
それが儀礼用ではなく実戦用のものであることは一目瞭然だ。
半球状のナックルガードに埋め込まれた深い青色の宝玉が、
シンプルな銀色の剣に気品と美しさを与えている。
「…最初から足止めのつもりだたんですね」
そう言いながら遙も鞘に左の親指をかける。
しかし帰ってきたのは意外な返答だった。
「足止め?
…ふん、さっきも言っただろう。
魔法が斬れぬ以上、貴様など行っても役には立たん。
俺がここで待っていたのは貴様と決闘をするためだ。
純粋に剣と剣とによる闘いをな。
残霧を与えた理由も同様だ。
武器の差で勝負が決まるのは興ざめだからな」
さすがにこれには遙も驚く。
「な、なっ!?」
「…貴様に選ぶ権利などない。
それに無駄話をしている時間も惜しかろう」
ゆっくりと重心を下げながらわずかに剣を握り直す。
いつでも斬りかかれる体勢だ。
それを見て遙も決意を固める。
相手の意図は全く掴めないがここで黙って死ぬわけにはいかないから。
「…そうですね。そういうことならやるしかありません」
そして右手を柄にかける。
左手で鯉口を切る。
腰を落として精神を集中する。
場の雰囲気が一気に緊張した。
高まる意識を絶えず相手に向けながら、
遙の頭の中で様々な情報が高速で飛び交う。
相手の意図は一体何なのか。
あれだけ派手な騒動が起きていて、
しかもその原因もわかっているなら、
普通は真っ先に現場へ向かうはずだ。
それなのにこんなところで遙を待っているというのは、
足止めの可能性が高いだろう。
それとも、もう一人(?)の悪魔が向かったので
彼には行く必要がなかったのか。
それでも決闘などというのは全く意味不明だ。
それから彼に渡された残霧という刀のこと。
もし仮に決闘したいというのが本当だとして、
この刀はどうなのだろうか。
斬った相手を霧に変えるという危険極まりない武器を
タダで決闘相手に渡すだろうか。
彼にはこの刀の特殊効果が効かないか、あるいは
この刀を持つものをコントロールする力でもあるのだろうか。
あとは魔法のことも考えねばなるまい。
『剣と剣とによる闘い』などと言っていたが、
そんなものはあてにならない。
以前会ったときには明らかに魔法を使っていた。
ならば今回もいつ魔法を使ってきてもおかしくはない。
更に……。
遙は頭を軽く振った。
「いや、考えても仕方ありませんね」
それが結論だった。
相手が何を考えてどういう戦法をとってこようと、
遙には己の剣技と一振りの刀しかないのだ。
おのずと取れる戦法も一つに絞られる。
すなわち、相手が動作を起こすより早く全力で相手を斬り伏せる!
そうと決まれば話は早い。
瞬時に気を全身に行き渡らせると脅威のスピードで疾駆する。
ファウストが動いたのもほぼ同時だった。
数メートルあった距離は刹那のうちになくなり、
二人の間合いが一気に交錯する。
「はああああぁぁぁぁーーー!!!」
遙の右手が超高速で刀を解き放ち、同等の速度で左手が鞘を引く。
一際大きな踏み込みと共に体重の乗った一撃が繰り出され、
夕日を反射する間もなく白刃が逆袈裟の軌道を描く。
一方のファウストは後方に水平に倒していた刃を横一文字に振り出す。
腰の捻り手首のスナップが十分に利いた斬撃は、
銀色の閃光と化して唸りをあげながら標的に飛びかかる。
衝突。
…そして。
キーン!!
甲高い澄んだ金属音の余韻を残して二人の身体がすれ違う。
互いに2メートルほど歩を進め、それっきり完全に静止する。
石像の如く、微動だにしない二人。
不意に空がまばゆく光り、直後に凄まじい震動と爆発音。
今までのものとは比べ物にならないほどの衝撃。
それでも二人は動くことはなかった。
その様子がさらに石像らしい印象を深める。
それから数瞬。
「くっ」
感覚的には無限にも感じられた沈黙を破ったのは遙。
痛みに誘われて手を伸ばした先は左脇腹。
傷自体はそれ程深くはなさそうだが、流れる血は着物を赤黒く染めていた。
その間にファウストも我に返る。
こちらは左の上腕から赤い霧を吹き上げてた。
霧の発生源が他にないことから、傷はそこだけのようだった。
「…ちっ」
軽く舌打ちをすると、ファウストは右手で握ったままの剣を左の脇下に当てる。
そして肩もろとも己の左腕を斬り飛ばした!
何のためらいも無く。
「じ、自分の腕を…」
気配を感じて振り返った遙は絶句した。
ごとり、と重い音を立てて地に落ちる肉塊。
それは見る見るうちに深紅の霧へと姿を変じてゆき、
あっという間に原型を失った。
ファウストは自分の身体の一部だったものに一瞥たりとも
くれることなく振り返ると、再び剣を構えた。
肩口から流れる血をそのままに。
「片腕と心中する気などさらさら無いからな。
さて、2ラウンド目を始めるか」
恐ろしい輩である。
放って置けば全身が霧と化してしまうこと、
魔法で腕を再生できるであろうことを考えても、
多少の躊躇があって当然のところであろう。
しかも顔色ひとつ変えることなく闘いを続けようとは。
その振る舞いにファウストの生き様と闘いへの姿勢を見た気がして、
遙も改めて心を固める。
殺さなければ殺される、と。
そして再び刀身を鞘に収め、抜刀術の構えを取る。
脇腹の痛みを意図的に遮断する。
このぐらいの傷ならすぐに失血死することはない。
その前に決着がつく。いや、つける!
再び周囲の緊張感が急激に高まる。
互いの放つ剣気がぶつかり合い、空気がびりびりと振動する。
そしてそれが最大値に達し、今まさに斬撃が交わされようとした瞬間。
…それは降って来た。
あまりのことに、遙は最初、何が起こったのか分からなかった。
今の今まで対峙していたファウストの姿が突然消えたのだ。
魔法?
幻覚?
いや、そうではかった。
気を落ち着けてよくよく見てみると、ファウストは地面に倒れ伏していた。
その上にはファウストを押し倒すような格好で、
煤と土煙で汚れたローブを纏った青年が乗っかっていた。
…つまりこういうことだ。
空から降って来た火王ヴァルーガがファウストに直撃した、と。
「ファー君、ファー君。大変ですよ。
破剣の第2封印が解けちゃったみたいですよ」
能天気な墜落者が能天気にまくし立てる。
「いや〜、僕もヘマしちゃいましてね。
さすがは剣天使の愛弟子と言うか何と言うか。
とりあえず破剣が天使の手に渡るのはあんまり良くないですよね。
今から追いかければもしかしたら間に合うかも知れませんけど、
どうしましょ、うわっ…」
そんなヴァルーガを放り投げるとファウストはゆっくりと立ち上がり、
立ち尽くす遙に向けてこう言った。
「興がそがれた。悪いがこの続きはまた今度だ」
それだけを一方的に伝えると脇道へと足早に歩み去る。
その後ろを慌ててヴァルーガが追いかけてゆく。
ヴァルーガの『あ〜、も〜持ってくださいよ〜』とか
『破剣を取り返さないとローウェン様に怒られちゃいますよ』とか
『あれっ。ファー君、左腕をどこに落としてきたんですか?』とかいう
騒々しい声の聞こえなくなる頃になってようやく遙は我に返る。
そしていつの間にか辺りを包み込んでいる夕闇の中を
爆心地へと駆け出していった。
そのとき遙はまだ知らなかった。
そこで彼を待つものを。
<了>