黒衣

真っ暗な洞窟の中に広がる不思議な森。
来るものを拒む見えざる森の奥深く。
淡く燐光を放つ大樹があった。
その無数の枝で編まれた天然の鳥篭。
その中に彼女はいた。
膝を抱えて目を閉じ、静かに眠っていた。

もしかしたらそのまま寝かせておいた方が良かったのかもしれない。
でも俺は何故かそうすることができなかった。
気が付くと剣を抜き放ち、少女を縛る戒めを切り裂いていた。
そしてゆっくりと慎重に少女の身体をゆすった。
「…んっ」
小さな声を発してから、少女はゆっくり目を覚ます。
彼女の視線はしばらく辺りを彷徨い、それから俺を見つめる。

「…もう”時”が満ちちゃったんだ」
そう呟いた少女の瞳は寂しげな色をたたえていた。
「時?」
「そう、もうすぐ世界は滅びてしまうんだよ」
あまりにも唐突な言葉。それはさらに続く。
「わたしが目を覚ましたっていうのは、そういうことだから」
「君は…」
「……わたしは殲滅者。世界の全てを消し去る者」
彼女は厳かに、そして静かにそう告げた。

闇の中に浮かび上がる神木。
その腕に抱かれた少女の姿を改めて見た。
宇宙の深淵を染め付けたような黒衣。
色白の肌。裸足の小さな足の先が服の裾からのぞく。
銀色の長い髪に結ばれた漆黒のリボン。
何ともいえない儚さを纏った華奢な少女。
世界を滅ぼす力を持っているようにはとても見えない。
だが…。
彼女の瞳の奥にはたしかに、
無数の消えゆく命への憐憫の情が秘められていた。

「それは…本当…なのか?」
乾いた唇からかすかに言葉を紡ぐ。
「うん」
少女の口調に澱みはなかった。
少なくとも嘘をついているような気配は微塵もなかった。
「わたしは世界を滅ぼす為に生み出されたんだ。
それからここでずっと眠っていたの。
時が満ちて目を覚ます時まで。
使命を果たす日まで」
…使命。
それは世界を滅ぼすことに他ならない。
ならば俺が、その引き金を引いてしまったというのだろうか。
だが、そんな俺の考えを見透かすかのように少女は答えた。
「ううん。あなたは悪くないよ。
あなたが起こさなくても、誰かがわたしを起こしていただろうから。
もう時は満ちてしまったから」
「そうか……」
俺は一度言葉を切る。一つ溜息を吐く。
いまだに実感は全く無かった。
それでも彼女の言葉を何故か頭が認め始めている。
何の証拠もない彼女の言葉だが、
そこには不思議な重さと説得力があった。
「それならこの世界はもうすぐ消えて無くなるのか」
「うん。………でもね」
少女の言葉が初めて途切れる。
「…わたしはこの世界を壊したくないの」

まただ。
少女の瞳に寂しげな色が濃く浮かんだ。
同時に俺の心の中で何かが揺らめいた。
「壊したくない?でもそれがきみの使命なんだろ?」
「わたしはここで眠っていたとき、ずっと夢をみていたの。
世界の美しい情景と、そこで暮らす人たちの笑顔。
そんな幸せな夢をみているとわたしも幸せになれたの。
だから…だからね」
神秘的な光に照らされながら、黒衣の少女は軽く目を閉じ、
胸元で両手の指を絡めながら言葉を続ける。
「わたしに幸せをくれたこの世界を壊したくないの」
それはたった一つの小さな願い。
俺は少し違和感を覚えて、質問を重ねた。
「ここから外に出たことはないのか?」
「ないよ。
この洞窟と森、それからこの大きな樹は
わたしとわたしの力を封じ込めるための結界なの。
ううん。きっと世界そのものが結界なんだろうね。
だから、時が満ちるまでは決して外に出られないの。
世界を滅ぼし、世界と共に消える。それがわたしの使命だから」
…使命。
改めて聞いたその言葉は俺の心を激しく打った。
使命を果たす為だけに生み出され、生かされてきた少女。
世界を滅ぼす力を持ち、世界に囚われている少女。
一度も外の世界を見ることなく、ただ夢だけに幸せを見出す少女。
そして世界と共に消えてゆく少女。
しかし、そんな仕打ちを受けてなお、彼女は滅びゆく世界を慈しむ。
使命との狭間で悩みながらも、決して世界を恨むことなく。
「………」
沈黙。
長い沈黙。
やがて俺の心の中にたゆたう曖昧なものは
徐々に一つの形を成していった。
それはいたって単純なもの。
この少女を守りたい。
その儚さ、強さを守りたい。
それが俺の答えだった。

「なぁ、一緒に外の世界を見に行かないか?」
「えっ…」
あまりにも俺の言葉が唐突だったせいか、
一瞬思考が停止したようだった。
「夢の中でみた世界を、今度は自分の目で見たくないか?」
改めて言い直すと、少女はようやく理解し、そして言葉を濁した。
「で、でも…」
「世界を滅ぼすにしたって、
別に世界を見物してからでも遅くはないんじゃないか」
「そうなの?」
「いや、俺はよく知らないけど。
でも神様だか誰だか分からないけど、それぐらいは許してくれるだろ」
そうだ。そうでなければ彼女があまりにも可哀想だ。
運命に弄ばれながらも健気に生きてきた彼女には、
それぐらいのことは許されてしかるべきであろう。
「で、どうなんだ?行くのか、行かないのか」
「う〜んと……」
真剣な表情で考え出す少女。
使命のことと自分の願いとに色々と思いを巡らしているのだろう。
その顔には歳相応のあどけなさがあった。
しばらくその様子を眺めていると、やがて彼女は小さく呟いた。
下を向きながらやや上目づかいで。
「……行きたい」
それが彼女の答えだった。

「そうか、それじゃあこれからよろしくな。
俺はシンだ。そのままシンって呼んでくれ」
「シン…」
ゆっくりと、噛みしめるように俺の名を口にする。
それから。
「わたしは…キャロル。わたしのこともキャロルって呼んで」
「キャロルか。うん、いい名前だな」
「そうかな?あ、ありがと」
少し照れながら差し出された俺の手を握り返すキャロル。
その手は小さく、ひんやりしていた。
「さて、それじゃ行くとするか。」
「うん」
「きっと世界はキャロルが夢で見たのよりももっとすごいと思うぞ」
「うん!」
こうして俺たちは歩き出した。
薄緑色の淡い光を放つ大樹を後に、洞窟の入り口に向かって。
今度彼女の黒衣を照らすのは暖かな陽の光だ。
そしてその光が果てるときまで、
世界が滅び彼女が消える日まで、
俺はキャロルと共に旅をしてゆくのだ。
それが二人の答えだから…。
<了>

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