雨の交差点

湿った空気をたたえる灰色の空。
規則正しいリズムで僕の傘を打つ天の雫。
まばらに通り過ぎる車たちは
心なしかいつもより忙しなく感じられる。
そんな他愛のない夕方の情景。
雨の交差点。

信号を待ちながら何気なく横を見る。
と、道を隔てた反対側に……今日もいた。
紺色のコートに赤い傘。
表情はここからではよく見えないが
そこに感情が滲み出ている感じはしなかった。
それは…一人の少女だった。
人気のない町外れの小さな交差点。
そこににぼんやりと立つ少女を見かけたのは
今日が初めてではなかった。
見かける曜日や時間帯はまちまち。
けれども見かける場所は決まってこの交差点。
そして天気はいつも…雨。

目の前の信号は青なのに、少女が道を渡る気配はない。
それもいつもと同じ。
ただこの場所に立ち、傘に雨粒を受けるだけ。
彼女はここで何をしているのだろうか。
誰かを待っているのだろうか?
何かを探しているのだろうか?
それとも…。

ぱしゃっ。
水の跳ねる音で不意に思考が遮られる。
一台の車が飛沫を上げて水溜りを駆け抜ける。
遠くなるエンジン音。
そしてまた静寂。

…ふぅ。
僕はひとつ溜息をつくと、また顔を横へと向けた。
だがそこに少女の姿はなかった。
ついさっきまで少女の立っていた場所は
今では周囲に完全に溶け込み、
夕闇の街の一部と成り果てていた。
もはやそこに少女の存在の残滓はない。

僕はそこでまた思考を巡らす。
いつも同じ場所にいて、その場を動くことはない。
ひっそりと佇み、忽然と姿を消す。
そして彼女を見かけるとき、
天気はいつも決まって雨。
「もしかしてあの子、ゆ……」
だが、言葉の半ばでそれは打ち消された。

「あたし、幽霊じゃないよ」
声は背後から飛んできた。
「うわっっっ!!」
一瞬心臓が喉の奥から飛び出しそうになり、
思わず悲鳴が漏れる。
しかも中途半端に振り返ろうとしたせいで、
思い切り体勢を崩してしまう。
吸い込まれるように足元の水溜りへと堕ちていく。
が、そんな僕の手を引っ張って支えるものがあった。
それは色白な小さな手。
そしてそこから仄かに伝わる温もりは幽霊などではなく、
れっきとした人間…先程の少女のものだった。

「大丈夫?」
僕が体勢を立て直し、しっかりと両の足で地に立つのを確認してから
心配そうな顔で少女は言った。
「あ、…うん」
僕は情けないところを見られ、しかも少女に助けられたことへの
気恥ずかしさで小さくそう答えるしかできなかった。
「そっか、よかった。…でもあたしもびっくりしたんだからね。
まさかキミがこんなに驚くとは思わなかったから」
少女は人差し指をぴっと立てると、
ちょっと拗ねたような怒ったような口調でこう告げる。
「ご、ごめん」
僕は反射的にそう答えてしまう。
別に悪いことをした覚えはないのだが…。
すると今度は。
「ううん、いいよ。びっくりしたのはお互いさまだからね♪」
といって少女は晴れやかな顔で笑い出す。
その笑顔は雨に煙る薄闇の中で、一際輝いて見えた。

ころころと表情を変える不思議な少女。
その姿をしばし眺めていた僕は、
ふと思い立って少女に向けて初めて意味のある言葉を発した。
「…ところでさ、なんで君は急に声を掛けて来たの?
もしかして僕に何か用があった?」
少女は顎に指を当てながら首を傾げ、こう答える。
「えっ。う〜〜ん、別に用はないかも。
…ただね、キミのことが目に映ったから声を掛けてみたの」
「もしかして僕のこと前から知ってたりした?」
僕は彼女をこの場所で何度も見ている。
この人通りの少ない交差点で。
ならば彼女も僕のことを見ていても不思議ではない。
だから僕は、少しの期待を込めてこう聞いてみたのだ。
だが、少女の答えはそっけないものだった。
「ううん、全然。会ったこともなかったし、見るのも初めてだよ」
僕は表情に僅かな落胆の色を浮かべる。
「…そう。僕はここで、君のことをちょくちょく見かけたけど」
「えっ、そうなの?でも、あたしはキミのこと知らないよ?
まぁ…あたし、興味のないものは目に映らないみたいだからね」
「………」
本当の事とはいえ、こうも平然と言われるともう呆れるしかない。
「…でもね」
「えっ?」
「今日は目に映ったんだよ、キミのことが。何でだろうね?」
そう言って、えへへと笑う顔つきは年相応に可愛らしく、
先程まで雨の中で一人佇んでいたときとはまるで別人のようだ。

少女は話しながら楽しそうに傘を回す。
お気に入りらしい赤い傘から透明な雫が宙に解き放たれる。
それらはまるでダンスを踊るように孤を描き、
静かに大地へと舞い降りてゆく。
そんな様子をぼんやりと目で追いながら
僕はさっきからずっと抱いていた疑問を少女にぶつけてみた。
「僕に声を掛けた理由はまぁいいけどさ」
「ん?」
「それまで、君はここで何をしてたの?
今日も、以前に君を見かけたときも、
ただここに立っているだけに見えたんだけど」
「……あたしは」
少女はそこで一度言葉を切る。
それから記憶を手繰るように、想いを紡ぐように軽く瞑目し、
最後には穏やかな顔つきで語りはじめる。

「あたしは……風を待ってるの。
季節の変わり目に吹く風。
物事の始まりと終わりに吹く風。
それは時に人やものの形をとり、
あるいは風そのものとして訪れることもある。
風は全てを知っていて、それでいて何も知らない。
ただ気ままに流れ、そして世界を巡る。
あたしはね、その風が吹くのを待ってるんだ。
雨に彩られたこの場所でね!」
歌うように、奏でるように、そして最後は満面の笑みでそう締めくくった。
「ふ〜ん、風…ねぇ」
話の内容はいまいちよくわからなかったが、僕は素直に感動した。
それは語る少女の雰囲気がなんとも幻想的だったからだ。
と、不意に少女が顔を近づけてくる。
そして自分と僕の顔の間に人差し指を立てると、
辺りを覗ってから小声でこう言った。
「でもね、この話は他の人には内緒だからね。
ここに人がたくさん集まってきたらきっと風は吹かないから」
「う、うん。…でもどうしてこの場所なの?他の場所じゃダメなの?」
僕もつられて小声で聞く。
すぐ目の前にある少女の顔に思わずどきりとさせられる。
「さあ、わかんない」
言葉の割には明るい声で少女。
「わからない、って…」
「うん。あたしにもわからないんだよ。
でもね、風は雨の日、この交差点で吹く。
何となくそう思うんだ。
そして…」

少女はその先を口にすることはなく、
かわりに大きく後ろにジャンプすると唐突に告げた。
「今日はそろそろ帰らなきゃ」
「えっ、もう帰っちゃうの?」
「うん、そうだよ」
屈託のない笑みでそう返す。
「だって君は…風を待ってたんじゃないの?」
口ではそういったが、実際は何か理由をつけて
少女ともう少し話をしていたかったのだ。
だが少女はその場でくるりと一回転すると、
「…風ならもう吹いたよ、(あたしの心の中に)。……じゃあ”また”ね!」
そして水溜りを飛び越えながら駆けてゆく少女の姿は、
あっという間に遠ざかり、見えなくなってしまう。
しばらく呆気に取られていた僕も、
傘を打つ雨の音を道連れに仕方なく帰途につくのだった。

すっかり暗くなった夜空の下を一人歩く。
先程の少女のことを思い浮かべながら。
交差点にぽつんと佇む姿と、無邪気に話す姿。
感情の乏しい顔と、喜怒哀楽に富んだ顔。
それは幻のような現実。
あるいは現実のような幻だろうか。
「一体なんだったんだろうなぁ?」
傘をずらして漆黒の天を仰ぐ。
と、視界に無数の白い粒子が舞う。
ふわり、ふわりと夜に踊り、
ふわり、ふわりと闇に沈んでゆく。
そう、いつの間にか雨は雪へと変わっていたのだ。
「季節の変わり目に吹く風…か」
あの少女は風を待ってると言っていたが、
本当はあの少女自身が風だったのではないだろうか?
僕に、世界に、風を吹き込むために
あそこで待ってたのではないだろうか?
僕は何故か晴れやかな気分になり、
足取りも軽く残り僅かな家への道のりを歩んだ。
「そう言えばあの子、別れ際に”また”って言ってたけど。
”また”なんてあるのだろうか?」
いや、きっとあるだろう。
なにせあの少女がそう言ったのだから。

翌朝、僕はいつもの通学路を通り、例の交差点に差しかかった。
昨日の天気とは打って変わって今日は快晴。
まばらに残る水溜りが陽光を反射してキラキラと輝いていた。
最近少し冷たくなってきた空気も今日は比較的暖かく、
信号待ちもそれほど苦にならない。
と、不意に背後から声が飛んでくる。
「わ・す・れ・も・のっ!」
一文字ごとに音源が近づいてくる
「えっ?」
振り返る先には昨日の少女。
うちの学校の見慣れた制服姿で、
こちらに向かって全速力で駆けくる。
いつもの傘は持っていない。
もちろん雨も降っていない。
僕ははじめて雨じゃない日に彼女に会った。
少女は僕の真横で急ブレーキをかけ、乱れた呼吸を整えながら。
「はぁ、はぁ。わ、忘れ…物…だよ、忘…れ物。
昨日さ、自己紹介するの忘れてたでしょ、あたしたち」
それから少女は最上級の笑顔で。
「あたしの名前は……」

そして新たな物語が始まる。
雨雲を吹き飛ばす新しい風に吹かれて。
高く澄んだ大空の下、風の交わるこの交差点で。
<了>

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