風は大空を駆け、星を巡る。
生まれ、消え、そしてまた生まれてくる風は、いつでも気ままに流れていく。
だが、そんな風にも好きな場所がある。
いつでも通るお気に入りの道がある。
”風の生まれる場所”に程近いこの山は、その通り道が複雑に交差するところ。
だから交通整理が必要なのだ。
風と風がぶつからないように。
お互いスムーズに吹き抜けていけるように…。
うまく風を誘導していかなければならないのだ。
それが僕の役目だから。
今朝もいつものように山の頂きに立つ。
だが、いつもとは風の匂いがだいぶ違っていた。
濃い雨の匂いだ。
ごうごうと鳴る風はシャツを激しくはためかせ、
足場の狭いこの場所から僕を吹き飛ばそうとする。
ひたすらに力強くて、それでいて優しさと柔らかさをも内包した暖かな風。
「さっそく来てるな」
そう、今日はコイツがやってくる日なのだ。
…台風。
そのせいで今日通る予定だったほかの風は、
近くで待機するか、迂回ルートを取るかするように事前に伝えてある。
ちょっと不満そうにしていた風もいたが、それは仕方のないことだ。
普通の風がコイツに、巻き込まれたり吹き散らされたりするのは可哀想だから。
そういうわけで、ここの山の交差点は今日一日コイツが独り占めなのだ。
年に一度のお客さま、そして今日唯一のお客様が…。
やがて降り出してきた雨は、真横から僕に飛び掛ってくる。
空気中に満ちた水の粒子が激しく乱舞する。
風はいよいよ勢いを増し、縦横無尽に吹き荒れては脆い岩場を抉りとらんとする。
逆巻く暴風雨は世界に破滅をもたらす魔神の降臨を思わせる。
慣れている僕でさえ目を開けているのが困難になり、だんだん踏ん張りがきかなくなる。
そしてふと体が軽くなったように感じた刹那、僕の体は高々と宙に放り出されていた。
世界がめまぐるしく反転し、三半規管が悲鳴を上げる。
落ちていく感じと昇っていく感じが複雑に交じり合う。
さすがに墜落したくはないので背中の翼を広げようと思うが、どうもその必要はなかった。
一際大きくて柔らかな風が僕をふわりと受け止めたからだ。
それはその場で軽くターンを決めると、僕を台風の中心へと誘う。
中心は当然のように晴れ渡っていた。
絶え間なく生じる上昇気流が僕の体をしっかりと支える。
「よう、久しぶりだな」
声を掛けてやると、低い唸り声で答える。
それはコイツの喜びの声。一年ぶりの再会がよほど嬉しいのだろう。
それにしても。
「相変わらず悪戯が過ぎるぞ。もう少し大人したらどうなんだ」
毎年毎年豪快に吹っ飛ばされる方はたまったものではない。
まぁ、僕もそんな悪ふざけを楽しんでいないと言っては嘘になるのだが。
じゃれつくように近づいてきた一筋の風を撫でてやると、
コイツは気持ち良さそうに目を細める。
一瞬だけ巨大な台風の形が崩れるが、またすぐにもとの渦巻き型に戻る。
それからコイツと二人で色んな話をした。
コイツの去年の旅の話。
僕の知らない遥か彼方の地の情景。
僕が出会ったたくさんの風たちのこと。
今年の交通事情。
この山に咲く花のこと。
僕の料理の失敗談…。
コイツが山を越えるまで、今日は一日コイツの話し相手だ。
風の上に寝そべって、他愛のないおしゃべりに付き合う。
ゆるやかに流れる静かな時間の中で。
やがて一番星が頭上に輝くころ(目の上は雲がないので星が見えるのだ)、
ようやくコイツの山越えが完了する。
ただでさえ歩みがのんびりのコイツが、更におしゃべりなんかしているものだから、
どう頑張っても丸一日はかかってしまうのだ。
まぁこの山は、今日は一日コイツの貸切りなんだから別にいいのだが。
「…じゃあ、そろそろ僕は帰るからな」
山から数キロ離れたところで、そう声を掛ける。
くううぅぅ〜〜〜ん。
少し悲しそうな、名残惜しそうな声を上げるコイツ。
まったく…。
「僕は明日からまた忙しいんだよ。それにお前もそろそろ行かなきゃならないだろ?」
優しく、優しく、絡み付いてくる風を一筋ずつ撫でてやる。
悪戯好きでそれでいて甘えん坊なコイツ。何年経ってもかわらないなぁ。
「また来年も面白い話を聞かせてくれよ。楽しみにしてるからな」
そして僕は翼を広げ、上昇気流をいっぱいに受けて舞い上がった。
しばらくじゃれ続けていたコイツも、やっと進む気になたのか、
徐々にスピードを上げて自らの道へと歩みはじめる。
「さっきも言ったけど、今年は”北の分風嶺”の道が細くなってるから気をつけろよ」
”わかってる”といった感じで瞬きする。
それから僕を上空へ力強く押し出すと、ごうっと一際大きな声を上げて走り出す。
「ああ。じゃぁまた来年な」
その姿を僕は手を振りながら見送り続けた。
北の分風嶺を抜けると間もなく、コイツは徐々に力を失って、やがて空へと溶けていくのだ。
だが、消えてしまうわけじゃない。
無数の風に分かれたコイツは一年がかりで星を巡り、
”風の生まれる場所”へと辿り着く。
そしてそこで再び台風のかたちをとり、またこの山に帰ってくるのだ。
楽しい話と新しい風を手土産にして。
だから悲しい別れじゃない。一年後にはきっとまた会えるから。
繰り返される永遠のなかで、風もまた常に流れ続けているのだから。
明日からはまたいつもの交通整理が僕を待っている。
あとコイツが粉砕した山の頂きの修理も…。
それが風の中で、風と共に生きる僕の役目だから。
それが僕の望んだ生き方だから。
淀むことのない時と風。
いつか僕が風になる日、コイツは何処を旅しているだろう?
この星の空はどんな色をたたえているだろうか?
風はいつも気まぐれで、そして風だけがすべてを知っている…。
<了>