ひんやりとした少し湿った空気。
頭上を覆う深緑の天井。
見渡す限りに佇立する無数の樹木。
鳥のさえずりが遠く近く聞こえてくる。
緩やかに流れゆく時間のなかで、溜息ひとつ。
「はぁ、わたしってもしかして…迷子?」
いつもの道で出会った見知らぬ風に何かを感じた。
翼をゆだね、その風の赴くままに飛んだ。
そして気が付くと、深い森の中にいたのだ…。
始めのうちは木を避けながら飛んでいたが、
木々の密度が増すとそれもままならなくなり、
今ではこのようにてくてく歩いている。
もうひとりの迷子―風―と共に。
「わたしが迷子なら、キミももちろん迷子だよね」
すると風は、照れ隠しでもするようにわたしの髪をそよがせる。
それに合わせて濃厚な森の空気が鼻腔をくすぐる。
その感覚にしばし目を細めると、わたしはまた歩き出す。
迷子といっても、実はそれほど困っているわけではない。
むしろわたしはこの森の散歩を楽しんでいた。
まわりの木々を見ていると、決して飽きることがないから。
みんな同じ木に見えても、一つとして同じものはない。
木の種類。
幹の形状。
枝振り。
葉のつき方。
木漏れ日によって作られる陰影。
それらが木に無限の個性を与えている。
そしてわたしは、木々が、森が、
たしかに生きているのだということを実感する。
どれぐらい歩いただろうか。
不意に前方に光溢れる場所が出現する。
そこは森がぽっかりと切り抜かれたような広場で、
遮られることのない力強い陽光が降り注いでいた。
そしてその中心には巨大な建造物。
深い森に抱かれて静かに佇む白亜の塔。
それは失われし時代の遺産。
人の作りしものであるその塔は、今や完全に森に溶け込み、
この緑の聖域の守護者にさえ見えてくる。
塔をゆっくりと見上げていくと、その先には空があった。
圧倒的な存在感と包容力を持つ蒼天と太陽がわたしを待っていた。
そのときに改めて気が付いた。
わたしは空に生きる者なんだと。
気ままな散歩も楽しかったけど、やっぱり空が一番だと。
わたしの想いを感じ取ったのか、わたしのまわりをくるりと回る風。
「じゃ、行こうか」
わたしは背中の翼をいっぱいに広げた。
純白の羽毛が光を受けて輝いた。
2、3歩助走をつけてジャンプ。
その身体を風が力強く押し上げた。
小さくて、それでも一生懸命な上昇気流が。
そして微かな緑の残り香を纏って、わたしは大空へと舞い上がった。
<了>