守るべきもの(前編)

「うわっ」
不意に起きるつむじ風。
とっさに目を閉じて箒を握る手に力を込めるが、
足元に集めてあった落ち葉はどうしようもなかった。
目を開けたときには既に悪戯な風にさらわれて、
そこらじゅうに敷き詰められていた。
「あーあ、せっかく集めたのに…」
残念そうな呟き。
そして袴の裾を軽くはたくと、それでも楽しそうに境内の掃除を再開する。
とても終わりそうにない掃除を。

「さ〜き〜、沙紀〜!」
聞き慣れた声。
ゆっくりと振り返ると、石段の方から一人の少女が走ってくる。
制服姿のその子を見て、こちらで掃除している少女―梓川沙紀―も
嬉しそうに答える。箒から片手を離し、その手を軽く振りながら。
「あっ、礼衣(れい)ちゃん!」
そうこうするうちに、制服の少女―安藤礼衣―が多少息を弾ませながら
沙紀のもとに到着する。
「もう、沙紀ったらまだ掃除やってたの?
こんな風が強い日に掃除してもきりがないでしょ。
掃いても掃いてもどんどん枯葉が落ちてくるんだから。
明日にしなさい、明日に」
「でも、木曜日は境内掃除の日だから…」
「だからって、こんなの一人でやってたら終わらないよ。
言いたくないけど、あんた、あんまり要領良くないんだし」
そう言って境内を見回す。
先程からずっと沙紀が掃いていたはずなのに、
それほど綺麗になっているようには見えない。
もちろんそれは、沙紀が真面目にやっていなかったからではなく、
掃いてるそばから風に散らされ、また木からもどんどん葉が落ちてくる
のが原因なのだが。
「でも…」
それでも沙紀は引かなかった。
生真面目な彼女としては、掃除の日には掃除をやらなければいけないと思っているし、
ここまで葉が散らかっていればなおさら、ということなのだろう。
「あんたって、変なところで頑固なんだから。
…わかったわよ。私が手伝ってあげるからちょっと待ってなさい」
「えっ、…いいの?」
「そのかわり、明後日の本殿の床拭き手伝ってもらうからね♪
さあさあ、私が着替えてくる間に少しは掃いときなさいよ!」
「ありがとう、礼衣ちゃん」
駆けていく礼衣を見送る沙紀の表情はとても晴れやかだった。
手伝ってくれるという事実もそうだが、それ以上に、
自分にはそういう友達がいてくれるということがこの上なく嬉しくて。

数分後。
箒を持ってやって来た礼衣は、白衣に緋袴という、沙紀とお揃いの巫女装束だった。
この神社のしきたりで、社務を行うときにはかならず正規の衣装を
身に纏わなければならないからである。
「それを着てると、なんかすごく凛々しく見えるね、礼衣ちゃん」
「なに言ってんの、沙紀とおんなじものでしょ。
そんなことより掃除、掃除!
私はこっちを掃くから、沙紀はそっち側をよろしくね。
とっとと終わらせて、とっとと帰るわよ」
「うん……って、わっ!また風がぁ〜」
相変わらず風に翻弄される沙紀。足元の枯葉をまたしても散らされてしまう。
要領が悪いというか、ぼんやりしているというか、
ともかく彼女の健気な努力の割にはあまりはかどってはいないようである。
「やれやれ…」
一方で、そんないつも通りな光景を見ながら、手際よく分担区域を掃き進める礼衣。
ため息をつきながらも、その表情はとても楽しげであった。
彼女も彼女で、沙紀と一緒にいるこんな他愛のない時間が好きなのだ。
「こりゃぁ、私の分担を増やさなきゃ帰れそうにないわね…」
こうして、際限なく舞い降りてくる秋の欠片と戯れながら時を過ごす少女たち。
彼女たちは性格も雰囲気も正反対であったが、紛れもない親友同士であった。

その建物の中の空気はひんやりとしていて、それでいてどことなく重々しい感じであった。
薄闇の中で数人の低い呟きが絶え間なく響いている。
ここは神社から少し離れた森の中にある守護社。
普段は1人か2人の人間が詰めて、神社とその上空の結界が正常に機能しているかを
監視している場所であるが、今はどうも様子が違っていた。
梓川神社の神主を筆頭にかなりの数の術者が集まり、
結界の強化と状況分析にあたっているのだ。
というのも、数日前から”向こう側”の何者かが上空の結界を破って
”こちら側”に進入しようとしているのである。
そしてその者の力はどんどん増しており、今まさに結界を突破しようとしている
という状況なのだ。
もちろん今までに魔物が結界に取り付くことが全くなかったわけではないが、
結界を破るほどの者の襲来はこの神社が創建されて以来初めてである。
「神主さま、もう結界がもちません!
まもなく奴はこちら側に実体化してくると思われます!!」
「それで奴の予測出現地点は?」
「現在分析中です。ですが最悪、神社の本殿という可能性も考えられます」
「本殿か……まずいな」
神主と呼ばれた初老の男―梓川陶兵衛―は重々しく呟く。
たしかに本殿にだけは近づけるわけにはいかなかったのだ。
そのためにわざわざ神社自体にも結界を施してあるのだから。
とはいえ、こうなった以上、今の事態に対して最善の策を取るしかない。
陶兵衛は軽く目をつぶって気を静めると、そこにいるすべての術者に指示を出す。
「結界手以外の1級術者は、出現地点が分かり次第、私についてそのポイントに急行せよ。
結界突破直後の弱っているところを一気に殲滅する。
残った者はギリギリまで結界を維持せよ!」
かくして守護社の緊張感は最大限に高まる。まだ見ぬ敵との直接対決を間近に控えて。

夕焼け空が徐々に藍色に移りかわり、陽が西に沈みかける。
それに伴って風の温度は急激に低下し、冬が近いことを予感させる。
雲はその形を緩やかに変えながら、風に流されて彼方を彷徨う。
そんな空の下で、最後の落ち葉を集めて袋に詰めた沙紀がようやく一息つく。
「はあ、やっと終わったぁ〜」
「おつかれさま♪」
こちらもついさっき掃き終えた礼衣がおどけたように声を掛ける。
「うん、礼衣ちゃんもね。今日は本当に助かったよ」
額にうっすらと浮かんだ汗を軽く手の甲で拭う。
薄手で通気性の良い巫女装束であるが、あれだけの掃除をすればこの季節でも
汗の一つもかこうというものである。
そういうわけで帰りに何か飲んでいこうかと思いつつも、やっぱり太るからやめようか、
などと些細ながらも少女らしいことについて真剣に悩んでみたりする。
そして今度はまた別のことに思い当たる。
「あっ。そう言えば礼衣ちゃん、明日試験なんだよね」
「そうだよ。2級術者の実技試験」
「やっぱりすごいよ、礼衣ちゃんは。高校1年でもう2級術者なんて。
普通は20年くらい修行しないとなれないっていう話じゃない。
私なんかまだ全然術が使えないのに……」
だんだん悲しくなってきて、ふと空を見上げる。
家路を急ぐ烏が一羽、静かな黒い翼で遥か高みへと舞い上がっていく。
礼衣は沙紀の隣に並ぶと、その肩を軽く叩きながら同じように大空を仰ぐ。
「そんなに落ち込まないの。なにも人間、術がすべてなわけじゃないでしょ?」
「でも、私だって巫女として神様に仕えたいのに、何も術が使えないなんて…」
「大丈夫!沙紀の気持ちと頑張りはちゃんと神様に通じてるはずだから。
だからもっと元気だしなさい!そんな顔してるなんて沙紀らしくないぞっ!!」
いかにも礼衣らしい真っ直ぐな励まし言葉。本当に沙紀のことを大切に思ってるのだ。
その言葉に、ようやく笑顔をのぞかせる沙紀。
それはもういつもの沙紀のものだった。
「うん、ありがとう礼衣ちゃん。私、元気でたよ。
落ち込んでる暇があったらもっと頑張らなきゃね♪」
そして改めて、僅かに残った茜色が闇に溶けていく様子を2人で眺めるのだった。

そのとき、空の一点で何かが弾けた!!
それは小さな亀裂のような白い閃光をあげると瞬く間に姿を消す。
そして次の瞬間に、今度は地上で巨大な地響きが起こる。
「きゃっ!」
「わっ!」
落雷のような轟音と激しい縦揺れ。
その源はどうやら、2人から数十メートルしか離れていない梓川神社の本殿らしかった。
揺れが収まると、先に立ち上がった礼衣はいまだに尻餅をついてる沙紀に
手を差し伸べながら言う。
「行ってみるわよ」
…こくん。
ためらいがちに小さく頷く沙紀。
本当は行きたくない。あれほどの衝撃があったのだ、ただ事ではないだろう。
それに祖父の陶兵衛から、ここ数日の魔物襲来の話も聞いている。
下手をするとその魔物と遭遇するかもしれない。
怖い。とても怖い。
でも…。
神社の異変をこのまま放って置くわけにはいかない。
せめて何が起きているかぐらいは確認しなきゃ。
術が使えなくても、私だってこの梓川神社の巫女なんだから。
礼衣の手を握って立ち上がると、自分の中で何かを決意するようにもう一度大きく頷く。
そして先を行く礼衣を追って本殿へと駆け出すのだった。

薄暗い本殿に入ると、強烈な殺気が二人を襲う。
術者の礼衣はもちろん、術の使えない沙紀でさえもはっきりと感じられるほどの殺気が。
そしてその主は、わずかに射し込む夕日に照らされて佇んでいた。本殿の中央に。
3メートルを越す長身。毛むくじゃらでがっしりした人型の体躯。頭に生えた一対の角。
その姿は昔話に出てくる『鬼』そのものであった。
「ナンダ、キサマラハ?」
「歓迎しにきたのよ。あなたをね」
そう言うが早いか、礼衣は弓に矢をつがえるような動作に入る。
淀みなく腕を引き上げ、ゆっくりと弓を引く。
そして見えざる弓から見えざる矢を放つ!
ヒュン!!
風切り音。
わずかに動いて軌道上から身体を逸らす鬼。
ドス!!
直後にその背後で起きる着弾音。
そう、たしかに礼衣は矢を射たのだ。術によって生み出した不可視の矢を。
「ホウ、人間ニモマダ魔法ノ使エル者ガイタトハナ」
「あちゃ、避けられちゃったか」
ゆっくりと壁伝いに移動する礼衣。そして本殿の側面で立ち止まる。
沙紀を戦いに巻き込むことを避けたのだ。
「でも、今度は当てるわよ」
懐から取り出したのは赤い紐に二つの鈴がついたものだった。
ちりん、ちりん。
涼やかな鈴の音が、閉鎖された戦闘空間に満ちる。
だが、それもしばしのことだった。
「聞きなさい、神聖なる調べを!」
大きく振りかぶって鈴を投げつける礼衣。
すすり泣くような余韻を引きながら飛ぶ鈴は、正確に鬼の額に向かう。
それを反射的に腕で振り払う魔物。そしてその刹那、腕に痛みが走る。
いや、痛みという程のものではない。
ただ一瞬だけ痛感が刺激された、という程度の些細なものであった。
しかし、その一瞬がすべてだったのだ!
礼衣が放った二本目の矢が魔物の頬を掠めてゆく。
もちろん直撃コースだったものを避けたのだが、完全には避けられなかったのだ。
…一瞬の差で。

「ほーら、当たったでしょ?」
得意げに少し胸を反らす礼衣。
こんな緊迫した場面でもでもそうせずにいられないところがいかにも彼女らしかった。
一方、魔物の方は頬の赤い血を指で拭うと、ニヤリと笑う。
「ククク…人間ノクセニ、ナカナカ楽シマセテクレルジャナイカ。
…ダガナ、調子二乗リスギタヨウダ」
顔は笑っているが、実際はそうではないことは明らかである。
殺気を格段に増加させ、右手に力を収束させる。
そして空気の振動が絶頂に達したとき、大いなる衝撃波が打ち出される。
周囲の壁や床を木っ端微塵に吹き飛ばす。舞い散る木屑が烈風に弄ばれる。
「!」
咄嗟に懐から出したものを両手で構える礼衣。
この神社で以前に掲げられていた注連縄を短く切ったものである。
そしてそれを術の媒介にして結界を展開する。
ぶつかり合う魔法と魔法。
力の均衡が保たれたのは僅かの間だった。
結界に生じた綻びに一気に殺到した衝撃波が礼衣の脇腹を深々とえぐる。
純白の衣がぱっと朱に染まり、そのまま際限なく血を吸っていく。
まるで命そのものを吸い取っているかのように…。
「…くっ」
がくり、と倒れ伏し、苦しそうに喘ぐ。
なんとか相手を睨みつけるが、それも時間の問題のように思われた。
「ワカッタカ?自分ノ力量トイウモノガ…」
深手を負った礼衣にとどめを刺すべく、一歩踏み出す魔物。刃のような爪を剥き出しにして。

「礼衣ちゃん!!」
そのときだった。沙紀が礼衣のもとに駆け寄ってきたのは。
そして両手を大きく広げて、魔物の前に立ちふさがる。
恐怖に全身が小刻みに震える。瞳に大粒の涙が浮かぶ。
それでも彼女はそこから一歩も動こうとしなかった。
「…なにやってるの、沙紀。はやく…神主様たちを…呼んで…来て」
「出来ないよ、そんなこと!礼衣ちゃんを置いていくなんて!!」
「私たちだけじゃ…かなわないのよ。わかる…でしょ?」
「で、でも…」
たしかに礼衣の言うことが正しいのは分かっている。
このままここにいても、すぐに二人まとめて魔物に殺されることは明らかだ。
もちろん二人で一緒に逃げることも無理。
だから礼衣は、せめて沙紀だけでも逃がそうと思ったのだろう。
だが、ここで礼衣を置いてゆけば、もう二度と彼女に会えなくなるであろう。
助けを呼んできたときにはもう、礼衣の命は永遠に失われていて。
―そんなことはイヤ!―
もう一度決意を固めると瀕死の礼衣に背を向け、
涙で潤む目でそれでも懸命に魔物を睨みつける。
しかし、そんな沙紀の気持ちを魔物が解するはずもない。
沙紀の目の前まで歩み寄ってくると腕で軽々と彼女を払い除け、
御神体が祭られている祭壇まで吹き飛ばす。
致命的な一撃ではない。魔法の使えない人間などに興味はないのだ。
ただ、たゆたう埃を振り払っただけのことなのである。
「心配スルナ。スグニ後ヲ追ワセテヤル」
そして沙紀には一瞥もくれずに、改めて当初の獲物めがけて死の鎌を振り下ろそうとする。
さしもの礼衣でも、いよいよ自分の最期を悟って思わず目を閉じる。
「…ごめん、沙紀。結局守れなかったね…」
いまや流れる血は神聖なる衣を真紅に染め上げるだけでは飽き足らず、
傷口に当てられた手を伝って床に血溜まりを形成し始めている。
…終わった。
礼衣と魔物が同時に思う。

ところがここに一人、まだ諦めていない人間がいた。
「待ちなさい。あなたの相手は私よ!
『清純なるを宗とし、邪(よこしま)なりし者を討つ』これがこの神社の教えです。
そしてそれを守るのが巫女たる私の役目だから!!」
見れば、その手には一振りの真剣が握られている。
それは紛れもなく、この梓川神社の御神体である古の名刀『天薙(あまなぎ)』であった。
拵えはそれこそ八百年前のままと言っても過言ではなかったが、刀身は常に最高の状態を
維持されてきたようで、打ち上がったばかりの如く研ぎ澄まされていた。
刀の柄を強く握り締め、再び魔物を睨みつける沙紀。
構えもなっておらず、相変わらず全身が震えていたが、その瞳に迷いはなかった。
礼衣を死なせないためには、自分が魔物の注意を引きつけ、
おそらくこの事態に気付いているであろう神主たちの到着までの時間を稼ぐしかない
という結論に至ったからである。
そしてその為には死をも厭わない覚悟。そう、礼衣さえ助かるならば。
「ええぇぇぇぇーーーーい!!」
振り上げた刀とともに、しゃにむに突っ込む沙紀。
床を蹴って最大限に助走をつけ、渾身の一撃を放つ!
だが、切っ先が標的に届くことは無かった。魔物はまたしても苦もなく少女を振る払う。
そして今度は間髪入れずに追い討ちをかけてくる。
「ソンナニ死ニタケレバ、先二殺シテヤル!」
倒れた沙紀に振り下ろされる残虐なる魔爪。しかしそのとき、沙紀は動けなかった。

えっ、どうして!?どうして意識が遠のいていくの!?
ここで立たなきゃいけないのに。もっと頑張らなきゃいけないのに。
でないと、礼衣ちゃんが殺されちゃう。そんなのは絶対にイヤなのに。
いつも助けられてばかりの私だけど、いまは礼衣ちゃんを助けたいのに。
なのに、どうして意識が…。どう…し…て……。
<続>

back