「沙紀ーーーー!!」
礼衣の叫びも虚しく、凶刃が沙紀の身体を切り裂いた!!
……否。
そうではなかった。
魔物の爪は本殿の床に深々と突き刺さっているものの、
そこに沙紀の血は一滴たりとも付いていなかったのだ。
「ナ、ナニッ!?」
次の瞬間、斬り飛ばされた魔物の右腕は、おびただしい流血を伴って地に落ちた。
そしてその傍らに無表情で立つ沙紀。
べっとりと血糊のついた刀を握り、白衣に返り血を散らせて。
その姿は、神に仕える聖職者というより、むしろ禍々しい鬼神のそれであった。
「愚か者め。ここは貴様のようなクズの来るべきところではないわ!
800年前の条約で人界と魔界の出入りが禁止されたことぐらい知っておろう。
早々に去ね。さもなくば命を失うことになるぞ!!」
その口から紡がれる言葉、そしてその口調も明らかに普段の沙紀とは異なっていた。
「…沙紀!?」
返事がない。礼衣の言葉も彼女には聞こえてないのだろうか?
「…ま、まさか…沙紀に、何かが……憑いた!?」
結局、礼衣はそういう結論に達した。
沙紀の親友であり、誰よりも沙紀のことを知っている彼女だからわかるのだ。
先程の、魔物の一撃を紙一重でかわし、同時にその腕を断ち斬るという超人的な技。
その口調。表情。そしてなによりも、全てを圧するかのような凄まじい殺気。
それは彼女の知っている沙紀とは似ても似つかないものばかりだ。
―あれは沙紀じゃない―
そうなるともう、沙紀を依代として何かとてつもない者が降臨したとしか考えられない。
そして恐らくそれは御神体『天薙』の……。
だが、そんなことが魔物に分かるはずもなかった。もっとも分かる必要もなかったが。
魔物にとって、目の前に立つ人物は自分の片腕を斬り落とした
憎き敵以外の何者でもないからだ。
「くずトハゴ挨拶ダナ、生意気ナ人間ヨ」
「ふっ、貴様などクズ以外の何だというのだ?
大方、魔界で食いっぱぐれて、のこのこと人界にやってきたのだろ。
ここでなら餌が取れるだろうと踏んでな。だが、負け犬はどこに行っても負け犬だ。
自分の世界から逃げるような者など恐るるに足りぬわ!」
「ソウカ、ナラバ試シテヤロウデハナイカ。後デ後悔シテモ遅イゾ!」
とはいえ、魔物も先程の一撃で敵がかなりの力量を持っていることを身をもって悟った。
手加減などしていてはこちらが危ない。
何者かは分からないが、この者だけは全力で潰さなければ。
残された左腕に魔的要素を収束させ、複数の衝撃波を同時に放つ。
唸りをあげる力の奔流が幾度となく沙紀に向けて押し寄せる。
その強靭なあぎとで獲物に食らいつくが如く。
だがそのすべてを沙紀(を御している者)は、瞬時の読みと俊敏な動きでかわしてゆく。
間髪いれずに第2陣、第3陣と衝撃波を撃ち続ける魔物。しかし結果は同じ。
沙紀の身体に届くことはなかった。
一方で沙紀の方も、隙を突いては斬撃を加えようとするものの
魔物の展開する魔法障壁によってそのことごとくを弾かれるのであった。
やがてさすがに連射に疲れたのか、一旦攻撃を止める魔物。
そしてそれを見て、沙紀も刀を正眼に構えたままで静止する。
もはや廃墟としか呼べない有り様になっている本殿の中ほどで対峙する2人。
今までの嵐のような激闘が嘘のような静寂。だがまだ戦いは続いている。
『動』の戦いが『静』の戦いに移っただけで。
どちらも殺気の放出を最小限にとどめて相手の出方をうかがっているのだ。
お互いに決め手を欠いて。
―まずいな―
沙紀の身体を支配している者は思う。
先程の攻防では、ともすると魔法を連発する魔物よりも優位に立っていたような印象だったが、
実際はそうではなかったのだ。
―このままでは依代の体が持たない―
そう。
どちらかというと運動能力が高いほうではない沙紀の体であの動きを続けるのは
もう限界に近くなってきているのだ。
どんなに高度な動きを要求しても、依代の体がその通りに動かなければ意味がない。
さっきも、全ての攻撃を紙一重でかわしていた様に見えるが、そうではない。
”紙一重でしかよけられなかった”のだ。
最後の方など、実はかなり際どい場面がいくつかあった。
相手が攻撃の手を緩めてきたのは、むしろこちらにとっても好都合だったのだ。
―そろそろ勝負に出た方が良さそうだな―
それにはまず…。
「貴様の魔法障壁、……邪魔だな。今から斬り払ってやろうぞ」
「ばかナコトヲ。人間デアルオ主に魔法ガ斬レルモノカ!」
鼻で笑う魔物。…当然である。
魔法というのは魔法でしか破ることができないのだ。刀などで斬れるものではない。
仮にそんなことがあるとしても、それは最強クラスの魔界の武具を用いた場合である。
沙紀の持っている刀は単体でも相当な妖気を放ってはいるが、所詮は人界の産物。
魔法を斬ることなどできようはずもない。
だが、沙紀はさも当然のように言い放つ。
「そんなものが斬れないとでも思っているのか、愚か者め。
全力で障壁を張らないと後悔することになるぞ」
こうまで人間に挑発されては、もはや魔物の方も引き下がれない。
それに、斬撃を弾いた瞬間に魔力を解き放てば、
さすがに今度ばかりはかわすことが出来ないだろう。
そしてそれは致命的な一撃になる。魔物にとっても分の悪い勝負ではないように思われた。
そこまで考えをまとめると、左腕を前方に思い切り突き出して、全魔力を集中する。
本殿の中を漂う微細な魔的要素が徐々に集まってゆき、
それらは揺らめき、波打つオーロラのような障壁を形成する。
その壁は先程まで魔物が張っていた透明なものに比べて、
厚さ、耐久性、ともに各段に上がっているようであった。
「サア、イイゾ。イツデモ来イ!!」
その声を合図に沙紀も動く。
正眼に構えていた刀の切っ先をゆらりと右後方に下げてゆく。
それに合わせて、静かに右足も後ろへと引き、左半身(はんみ)となる。
やがて切っ先は、魔物の方から見ると沙紀の背中に隠れるようになる。
脇構えである。
そこで一度動きを止める。
一呼吸置く。
そして…動いた!
白足袋が床の上を凄まじいスピードで滑る。
一気に間合いが詰まる。
刃が右下後方から淀みなく引き上げられ体の真横で水平になる。
袴の裾が微かな衣擦れの音を立てる。
最後の一歩。
腰を落とす。
そして次の刹那。
振り抜かれた天薙は魔法障壁を真一文字に斬り裂いた!!
神技『波斬』である。
嵐の海の荒れ狂う波を一刀両断するほど剣技。
それは重なり、別れ、複雑にうねる波の、最も脆い瞬間、最も脆いポイントを瞬時に見抜き、
そこを寸分の狂いなく斬ることのできる力と技、そして刀を以って初めて成すことが出来る
という非常に高度なものなのである。
巨大船すら覆す荒波をたった一閃で崩すこの技、それを体得した者はあらゆるものを
斬ることができると言われるほどであり、無論それは魔法とて例外ではない。
魔法を使えない人間が魔物に立ち向かう為に生み出した究極の奥義と言うことが出来よう。
「ナッ!?」
だが、驚いている暇などなかったのだ。
沙紀は素早く切っ先を返すと、更なる踏み込みと同時に2撃目を放つ。
それは波斬の斬道をそっくり逆になぞり、今しがた開いた魔法障壁の切れ目から
直接魔物の体を薙ぎ払う。
一瞬の間。
飛び散る血しぶき。
崩れ落ちる巨体。
左腕で傷口からはみ出してくるはらわたを必死で抑える。
喘ぎ声をあげる口からも、おびただしい量の血が溢れ出す。
「コ、コンナ…ハズハ……」
予想だにしなかった事態。
まさかいとも簡単に、全力で張った魔法障壁を破られるとは。
そしてこれほどの傷を負うとは。
上半身と下半身がかろうじて繋がっているとはいえ、
もはや助かる見込みがないほどの瀕死の重傷だということは魔物にも分かった。
そしてもう残された時間はあと僅かなのだ。
ならば、いっそのこと…。
残る命を燃やし尽くすかのように、急激に魔力を増大させる。
先程の魔法障壁を上回るほどの強烈なエネルギーの渦が生じる。
それは魔物の体を中心に徐々収束してゆき、周囲のあらゆるものを吹き散らす。
―ドウセ死ヌナラ、ココラ一帯ノ人間ヲ道連レ二シテヤル―
それが魔物の最後の抵抗であった。
「…仕留め損なっていたか。だが、介錯がなければ死ねないとは、つくづく厚かましい奴よ」
たしかに沙紀に憑く者は、あの攻撃で全てを決しようとしていたのだ。
だが、2撃目の踏み込みが僅かに足りなかった。
依代である沙紀の身体がそこまで反応することが出来なかったからである。
そしてそれは、こういう結果を招いてしまった。
沙紀の身体が限界に達している以上、もう波斬は撃てない。他の手を考えねば。
目の前の災いの渦はみるみるうちにその半径を狭め、ただ一点に向かってゆく。
もう破裂するのは時間の問題のように思われた。
「ちっ、これだけは使いたくなかったのだがな。……仕方あるまい」
舌打ち交じりに一人ごちると、厳かに呪文を唱え始める。
それは、悲しげな歌のようであり、また祈りのようでもあった。
静かに呪文が紡がれるにしたがって場の空気が微妙に変化する。
暖かくて、それでいて冷たい何かが沙紀の周りに満ちてきているのだ。
いよいよ魔物の魔法が解き放たれようとするとき、ようやく呪文を唱え終えた沙紀は
刀を高く掲げながら最後にこう叫んだ。
「命尽きるとも、消えぬ激しき心もて、我が剣に集え、同志!!」
その瞬間、天薙がまばゆい青白い光をあげる。
それはこの地に生まれ、この地を愛して死んでいった多くの者たち魂。
肉体を失ってなお、この地の全ての生命の繁栄を願うあまたの心そのものであった。
彗星の如き尾を引きながら振り下ろされる蒼き刃。
それは爆発寸前の魔法の火球を貫き、この地に災いを起こさんとする者の
最後の一欠片の命を粉々に打ち砕いた!!
不意に収まる嵐。
今までのことがすべて幻であったかのように、訪れる静寂。
夕日がかすかな余韻をのこして西の空に沈みゆくなか、すべての力を使い果たした
沙紀はゆっくりと目を閉じると、深い深い眠りに落ちていった。
…声。
声が聞こえる。
誰の声だろう?
聞き覚えのない声だ。
それは、ゆらめくひかりのように頭の中に染みこんでくる。
少女よ。
そなたの神を信じる心、友を守ろうとする心は、たしかに我に届いたぞ。
己の命を賭してでも大切なものを守ろうとする優しき心は。
我が名は幽姫。刀に宿りし、この地を愛するものである。
少女よ、その清純なる魂を決して失うではないぞ。
そしてそなたと友に災いが訪れし時、我の名を呼ぶがいい。
必ずやその心に応えようぞ!!
…そうか。
あなたが神様だったのですね。
あなたが私と礼衣ちゃんを助けて下さったのですね。
ありがとう、神様。
本当にありがとう…。
目を覚ますと、布団の上であった。
身体のほうはまだ重かったが、気分はそれほど悪くなかった。
周りを見回すとたくさんの見知った顔に囲まれていた。
祖父の陶兵衛。術者のみんな。それから…。
「礼衣…ちゃん?」
「沙紀、沙紀っ!気がついたのね!
よかった…。ホント、よかった…。わたし、すごく心配したんだからね。
もしかしたら沙紀がもう目を覚まさないんじゃないかって…」
思わず感情が溢れ出す。沙紀の手を取ると、それを強く強く握りしめる。
涙で顔をくしゃくしゃにしながらも、沙紀にこれ以上ないほどの笑顔を向ける。
―いつも私を慰めてくれる礼衣ちゃんが泣いてるなんて、不思議な感じね―
そんなことをふと思いながら、礼衣の手を握り返す。
「ごめんね、礼衣ちゃん。心配かけちゃって」
「ううん、いいのよ。またこうして沙紀と話せるんだから」
「うん。これからもずっと一緒だよ!」
それは本当に大切な人だけに見せる、とびっきりの笑顔だった。
時は流れ、桜の花が辺りを華やかに彩りだす頃。
「さ〜き〜、沙紀〜」
後ろからやってくる聞き慣れた声に、ゆっくりと振り向く。
「あっ、礼衣ちゃん。おはよう」
「おはよう、沙紀。昨日の試験だけどね、…受かったわよ。
これで今日から私も1級術者よ♪」
「えっ、本当!? おめでとう、礼衣ちゃん。すごいよ、すごいよ〜」
まるで我が事のようにおおはしゃぎである。
思わずぴょんぴょん飛び上がってしまう。
「へえ、でも1級術者かぁ。やっぱり礼衣ちゃんはすごいなぁ〜。
私なんていまだに術が全然使えないのに…」
言いながら、今度は顔をしかめてしょげかえる。
表情がころころと変わるところがいかにも沙紀らしかった。
そしてそんな様子が微笑ましくて、礼衣も自然と笑顔がこぼれるのであった。
「心配しなさんな。そのうち使えるようになるわよ。
それに沙紀には幽姫さまを降臨させる、っていうほかの人にはない力があるんだから
もっと自信を持ちなさいよ!」
「うん。…でもね、あれはあんまり使いたくないんだ。
幽姫さまも、『死者の魂を宿らせることは、依代の者の寿命を縮める』
っておっしゃってたし」
「ふーん、そういうもんなんだ。うまくいかないものねぇ」
「うん、そうなんだよ。それにね…」
―大切なものは自分の力で守りたいから―
それは胸に秘めた密かな想い。そしてたった一つの確かな決意…。
「コラ、沙紀〜!」
「えっ!?」
「なにボーっとしてるのよ。遅刻しちゃうわよ!」
言ってるそばから、青空の下でチャイムの音が響き始める。
「わっ!!」
慌てて、前を行く礼衣を追って校門までの十数メートルを走り出す。
スカートの裾をはためかせながら、ちょっと危うい足取りで。
風が、淡いピンクのヴェールで2人の少女を包み込む。
まるで彼女たちの変わらぬ友情を祝福するかのように。
そしてまた気まぐれな風は、あてのない旅をする。
今まで多くの人たちに守られ、これからも守られ続けるであろうこのトウホウの大地の
うららかな春の陽射しを道連れにして。
<了>