窓を開けると暖かい風が部屋に流れ込んでくる。
天気は快晴。
空の青さが気持ちいい。
僕は窓の外の手すりを飛び越えて空に舞った。
一瞬の落下感。
だが二、三度背中の翼を羽ばたかせると
すぐに体が浮き風に乗った。
そして今日もまたあの場所に向かうのだった。
空に浮かぶ巨大な大陸。
その西端にあるこの街から、
雲の海を越えて南東の沖合いに5km程行ったところ。
大陸とつかず離れず一緒に流れてゆく不思議な浮島があった。
それが目的地。
最近僕が毎日通っている場所だ。
春風に翼を預けて飛ぶこと三十分。
薄い雲のヴェールの向こうに小さな浮島が見えてくる。
名もない島にあるのはただひとつ。
剥き出しの土の地面の上にどっしりと座る一本の桜。
だから僕はここを桜島と呼ぶ。
ゆっくりと島に舞い降り、
中央にある桜の元へと歩み寄る。
見上げると頭上には桜の枝が力強く広がっている。
枝には無数のつぼみたち。
でもまだ咲いていない。
…そろそろだと思ったんだけどな。
もう一度枝を眺めてみるが、やはり開いているつぼみはない。
…やっぱりまだか。
諦めて帰ろうとしたとき、僕はふと気配を感じた。
振り返ると桜の太い幹の陰に一人の華奢な少女がいた。
何となく儚げな感じのする少女。
この場所で人に会ったのは初めてだった。
「今日も見にきたの?」
少女は何故か僕のことを知っているかのように話し掛けてきた。
「うん。でもまだ咲いてないみたいだね」
すると少女は笑いながらこう言った。
「今から咲くんだよ」
そして桜の幹に手のひらを当て、静かに瞳を閉じた。
それは不思議な光景だった。
少女の手がうっすらと輝き、その光が桜の木全体へと広がってゆく。
やがて無数の枝の末端にまで力がゆきわたると
全てのつぼみが一斉に花開き、
そして視界が一瞬で薄紅色に包まれる。
満開、としか言いようのない見事な満開である。
目の前で起きた奇跡のような出来事に思わず言葉が詰まる。
それでも聞かずにはいられなかった。
「君は…」
すると少女は目を開きながら答えた。
「私は春香(はるか)。木の精霊、って言ったらいいのかな?」
「木の…精霊?」
「そう。私の担当は桜なの。
桜の花を咲かせるのが私の役目。
この木が今年の一本目。
これから世界中の桜を咲かせに行くんだよ」
「そう…なんだ」
にわかには信じられないような話。
だが、少女の纏う雰囲気が言葉に真実味を与え、僕は何となく納得した。
そして光を振り撒きながら風に乗り、
周囲の桜を花で満たしてゆく姿を夢想した。
「もう、行かなきゃいけないの?」
「そうだね。次の桜を咲かせに行かないと」
「また…会えるかな?」
「う〜ん、どうかなぁ。全ての桜を咲かせたら、
次の春まで眠らなきゃいけないからね。
…でも、来年もこの場所で待っていてくれるなら…」
「待ってる。僕、待ってるよ」
「ほんと?」
「うん。約束する」
「そっか。それじゃ、また来年、だね?」
「うん」
そして僕は春香と笑顔を交し合った。
約束はそれで十分だった。
それを合図にしたかのように、
少女の華奢な姿が陽炎のように揺らぎ、
そして風に溶けるようにして完全に消えた。
あとにほんのりとした桜の香りと、
たった一つの約束だけを残して。
<了>