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武田信玄の館

武田信玄の終焉地
元亀4年(1573)、上洛の途中没した武田信玄の終焉地については諸説あり。最も信憑性が高いとされているのが長野県下伊那郡駒場説。「当代記」「武家事紀」「御宿監物長状」では終焉地を信州駒場とする。特に信玄の侍医といわれる御宿監物が小山田信茂に宛てた長状は、信玄最期の模様をほうじており側近くに仕えた人物の記録として信頼度が高い。その他、終焉地として、長野県下伊那郡 根羽説を挙げているのは「甲陽軍鑑」「熊谷家伝記」など。長野県下伊那郡浪合説を挙げているのは「徳川実紀」「三河物語」
信玄の墓

武田信玄の墓

長野県佐久市岩村田住吉竜雲寺
昭和6年境内から骨壷と短刀それに象牙の袈裟の環が発見された。袈裟の環には「大檀越信玄、干時天正元年酉年4月12日、於駒場卒戦時為・・・・」と記されていた。その後、昭和十四年霊廟が建てられここに納められた。信玄遺骨として注目を浴びたが、発見の経緯や刻まれた字句に疑義が出されている。竜雲寺中興の北高全祝は、信玄によって、佐久信仰後の永禄年間、越後から迎えられた。以後、武田家の外護を受け、天正二年(1574)信玄の父信虎の葬儀には北高全祝が大導師となっている。
信玄の墓

武田信玄の墓

愛知県北設楽郡設楽町田口福田寺
いくつかある信玄終焉地のひとつ。境内には信玄塚がありそこに信玄の墓と称する五輪塔がある。「三河志」には野田城包囲の際、銃撃された信玄がこの寺に滞在・療養するが他界したとされる。その他、西上軍に従ってきた側室が剃髪し信玄の菩提を弔うためにこの寺に残ったという口伝もある。

信玄の墓

武田信玄の墓

和歌山県 高野山成慶院
武田信玄の墓とされる巨大な五輪塔がある。
高野山成慶院は武田家とは寺檀関係・宿坊関係を結んでいた。そのため武田家ゆかりの品が多く伝わり晩年の姿を描いたといわれる「武田信玄画像」は有名。
武田信玄画像
*この画像については、藤本正行氏が「武田信玄像の謎」で信玄とは別人ではないかという説を唱えている。信玄と断定するには史料的裏づけが乏しいらしい。画像に描かれた風俗の特徴から、像主は能登国の守護であった畠山氏の可能性が高いとしている。

武田信玄の墓

京都府京都市右京区花園妙心寺町 妙心寺
信玄の墓と称される五輪塔がある。信玄が関山派と呼ばれる、妙心寺開山の関山恵玄の流れをくむ禅僧に篤く帰依していたことから信玄没後、高層によって妙心寺に分骨され、供養塔が建てられたとされている。

穴山梅雪の墓穴山梅雪の墓
静岡県清水市興津町 霊泉寺
霊泉寺は天正三年(1575)、駿河江尻城主となり、庵原郡一帯を支配した穴山梅雪により自身の菩提所として、天正九年(1581)、信州伊那開善寺主速伝宗販和尚を開山に請うて、開基した臨済宗の大寺である。梅雪は天正天正10年(1582)武田家滅亡直前、徳川家康に降り、6月本能寺の変に際して山城国宇治田原で一揆のため殺された。
霊泉寺境内には梅雪の墓があり「霊泉寺殿古道賢集居士天正10年6月2日」と刻まれている。

板垣信方の墓

板垣信方の墓

長野県上田市下之条字宮浦
千曲川に沿った台地上、下之条葦原神社の北小字宮浦には田に囲まれた中に板垣信方の墓といわれる五輪塔がある。板垣信方は諏訪攻略後、桑原城の城代をつとめ、甘利虎泰とともに信玄初期の輔弻の良臣と称される。天文17年(1548)小県郡上田原において村上義清と武田信玄は激闘を展開する。この戦いで信方は先峰を務め討死した。

笠原新三郎の墓

笠原新三郎の墓

長野県佐久市 志賀城
武田軍の佐久攻略戦において、最後まで抵抗した志賀城主笠原新三郎清繁の墓があり「怨みの首塚」とも呼ばれている。
天文16年(1547)7月から開始された志賀城攻めは8月11日、武田軍の猛攻を受け陥落した。この間八月六日には、救援に駆けつけた関東管領上杉憲政勢を破り、その討ち首を志賀城周辺に掛け並べるなど壮絶をきわめた。

菊姫の墓

菊姫の墓

京都府京都市右京区花園妙心寺町・山形県米沢市林泉寺
京都妙心寺塔頭隣華院及び米沢林泉寺にある。信玄の五女、母は油川氏。御菊御料人・甲斐御前ともいわれる。永禄元年(1558)に生まれ、天正7年(1579)上杉景勝に嫁ぐ。子供には恵まれず、慶長9年(1604)京都伏見邸で没する。隣華院に埋葬され、のちに林泉寺に改葬される。なお、林泉寺には信玄六男武田信清の墓がある。武田家滅亡後、姉菊姫を頼り上杉家から扶持を賜り、寛永十九年(1642)に没した。

見性院の墓

見性院の墓

埼玉県浦和市大牧 清奏寺
信玄の次女、母は三条夫人。天文14年、15年(1545,6)生まれ。永禄初年ごろ穴山信君(梅雪)に嫁ぐ。武田家滅亡後、本能寺の変に際し、夫信君を失った。晩年を江戸田安の比丘尼屋敷で送り、見性院領として「大牧六百石・大間木村五百石」の知行を与えられた。信松尼没後、二代将軍秀忠の庶子、後の会津松平家の祖保科正之を養育した。元和8年(1622)に没し清泰寺に葬られた。現在の墓塔は安政五年(1858)に会津藩主松平容保によって建立されたものである、なお、新座市野火止の平林寺には見性院供養塔がある。

高坂弾正の墓

高坂弾正の墓

長野県長野市松代町豊栄 明徳寺
曹洞宗竜潭山明徳寺の境内にある。弘治2年(1556)以来、天正6年(1578)に没するまで海津城の城代としてこの地にいた高坂弾正昌信の帰依厚く菩提寺となっている。

■信松尼の墓

東京都八王子市台町 信松院
信玄の六女、母は油川氏。新館御料人・お松御料人といわれる。永禄4年(1561)生まれ。永禄10年(1567)織田信忠と婚約。後に解消となる。元和2年(1616)に没する。

諏訪御料人の墓

諏訪御料人の墓

長野県上伊那郡高遠城町 建福寺
信玄の側室、四男勝頼を生む。諏訪頼重の娘で、諏訪御料人と呼ばれる。天文11年(1542)に父頼重が殺害されたのち側室に迎えられた。弘治元年(1555)に没した。墓は高遠町建福寺にある。元亀二年(1571)勝頼は武蔵野火止(埼玉県新座市)に平林寺に亡母供養を依頼している。また、諏訪湖を一望する岡谷市小坂観音院は諏訪御料人が住んだ場所ともいわれ、境内には供養塔がある。

武田信繁の墓

武田信繁の墓

長野県長野市篠ノ井杵淵 典廐寺
永禄4年(1561)の川中島合戦は、この付近で展開された。この時戦死した信玄の弟、左馬助典厩信繁はこの地に葬られた。のちに寺堂を築造し、瑠璃光山鶴泉寺と称したという。一説に信繁は鶴泉寺に陣を敷き、討死後この寺に葬られたという。江戸時代、松代藩真田家の保護を受け、承応三年(1654)松代長国寺の観国がこの寺を曹洞宗とし、松操
山典厩寺と改めたという。

内藤昌秀の墓

群馬県群馬郡箕輪町生原 善龍寺
武田家の重臣内藤昌秀・昌月父子を葬った五輪塔が並ぶ塚がある。内藤塚・開基塚ともよばれる。当初、善龍寺は箕輪城を本拠とする長野業政により神明山と号して建設されたが、その後、武田信玄が昌秀に山号を陽光院満行山と改め再建するように命じた。内藤昌秀は、天正3年(1575)長篠の戦いで戦死。

大通寺

■真理姫の墓

長野県木曽郡三岳村黒沢野口
信玄の三女、母は油川氏。万理姫ともいう。天文19年(1550)生まれ。弘治元年木曽義昌に嫁ぐ。武田家滅亡後、義昌は天正十八年(1590)の小田原合戦後に下総阿知戸に移封されたが、慶長五年(1600)その子義利の時に改易された。その後。真理姫は木曽谷に帰り、黒沢に隠棲し、正保4年(1647)に没した。

村上義清の墓

長野県埴科郡坂城町
村上氏の菩提寺満泉寺の近くの山麓にある。現在の満泉寺寺域とその周辺は、かつての村上氏館跡であった。天文22年(1553)8月、武田軍によって居城の葛尾城・居館さらに、満泉寺も兵火にかかり焼失。

両角豊後守の墓両角豊後守の墓

野県長野市稲沢中氷
両角豊後守虎定は信虎の従弟。川中島合戦では本陣の右備えを担当した。左馬助典厩信繁の討死を耳にし、自ら敵中に斬り込んで討死したという。現在樹木の中に「諸角さん」と呼ばれる墓碑がある。墓のある地元は古くから「諸角講」と呼ばれる講があり、墓碑の清掃や祭礼を行っている。