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武田晴信(信玄)と長尾景虎(上杉謙信)が対戦した川中島の戦いは、天文二十二年(1553)から永禄七年(1564)まで、足かけ十二年間にわたって、五回行われた。最大の激戦は、武田信繁・山本勘助らが戦死した永禄四年(1561)の第四回戦である。両者は善光寺平(川中島)の領有をめぐって、しのぎを削った。
信玄と謙信の一騎打ち
■第四回川中島の合戦
妻女山永禄四年(1561)閏三月十六日、北条氏の本拠小田原の包囲の帰途、鎌倉八幡宮の社前で関東管領に就任した長尾景虎は、上杉家を継いで上杉政虎と改名した。その間、信玄は北条氏の要請を受けて信越国境や西上野に出兵して上杉氏の背後を脅かした。信濃全土をほぼ掌中に収めた信玄を最大の敵とする政虎は、六月に関東から帰国すると、会津の蘆名盛氏、出羽の大宝寺義増らに応援を求め、態勢を立て直し、八月十四日、大軍を率いて信濃に侵入、武田方の支配する北信の軍事ルートを突破して川中島に出陣した。前年に信玄が北信濃の拠点として築いた海津城(長野県松代町)を攻めるために川中島を横断して海津城を見下ろせる妻女山(長野県松代町・更科市堺)に本陣を置いた。

海津城信玄は海津城からの救援要請を得て、越後軍が大軍を率いて北信に侵入したことを知り、川中島で雌雄を決するため、同月十六日朝、甲府の館を出発、途中、諏訪、佐久、上田の先方衆の真田幸隆らの信濃勢も参加しての大軍を引き連れて川中島へ向かった。妻女山に籠る越後軍の攻勢をかわして、八月二十四日に川中島の八幡原に陣を張った。妻女山の越後軍と真正面に対陣した形でにらみ合うこと五日、越後軍は攻撃する気配を見せなかったので、二十九日には武田軍は広瀬の渡しを渡って改築したばかりの海津城へ移動した。しばらくの間、両軍とも動きを見せなかったが、食糧などの補給が苦しくなってきた。まず、武田方が動いた。九月九日、海津城で軍議が開かれ、部隊を二分して越後軍を前後から攻撃するいわゆる「啄木鳥戦法}の策がとられることとなった。十日未明、高坂弾正、飯富兵部、馬場民部、小山田昌辰、甘利昌忠、真田幸隆ら土地に明るい武将らの攻撃隊が妻女山の越後軍の陣へ夜襲をかけた。

茶臼山本陣跡一方、信玄は弟信繁、長男義信、穴山信君ら親族と山縣昌景、内藤修理、原隼人佑、室住昌清ら旗本衆の本隊を引き連れて八幡原(長野県長野市八幡原)に陣を敷き、攻撃隊に追われて来る越後軍を追撃すべく待ち構えようとした。武田軍が動き出したのをいち早く察知した政虎は、全武将に闇にまぎれて妻女山を下山するよう命令した。武田の妻女山攻撃隊が山頂に駆け込んだ時には越後軍は一兵もいなかったという。政虎の越後軍は、山麓の赤坂に村上義清、高梨政頼、須田満親ら地元勢五隊を守備に付かせ、千曲川の雨宮の渡しを渡って八幡原に出た。

川中島は濃い霧に包まれていたが、夜明けとともに霧が晴れ、両軍の遭遇戦となった。八幡原の本陣の信玄は、妻女山から追われて来る越後軍を捉えるのは朝日が昇る頃と予想していた。ところが本陣が着くか着かないかのうちに越後軍の馬蹄の響きが間近に聞こえた。戦闘は二時間ほど続いた。明らかに越後軍が優勢であり、激戦の中で信玄の弟武田典厩信繁、室住豊後守昌清、初鹿野源五郎、油川彦三郎、安間三右衛門 、三枝新十郎ら武将級が次々に戦死した。山本勘助清幸もこの戦いで討ち死にしたという。信玄・義信父子も生命に危機が迫った頃、妻女山から駆けつけてきた高坂、小山田らの騎兵隊が越後軍の側面から攻めよせて巻き返した。両軍の激戦は午後三時頃まで続いた。結局、後半戦に劣勢となった越後軍は、かろうじて善光寺まで落ち延び、その日のうちに信濃を脱して越後へ引き揚げた。謙信と信玄の一騎打ちを裏づける史料はない。

この合戦で両軍とも三千ともいわれる数多くの戦死者を出したかつてない大激戦であったが、双方とも大勝利と喧伝している。しかし、この後、川中島一帯は信玄に押えられ、政虎は信濃国境付近の一部を維持するにすぎない状況に追い込まれており、戦争目的からすれば、実質、信玄の勝利ではあるまいか。