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当時駿河と遠江を領していた今川義元が永禄三年(1560)五月十九日、尾張の桶狭間の戦いで、織田信長の急襲を受け戦死した。今川の家督は嫡男の氏真が継いだが統制力を失い、勢力が弱体化したのを見て、信玄は今川領国の奪取を目指した。
■軍配
山梨県塩山市恵林寺所蔵の信玄愛用と伝えられる軍配は、南蛮鉄の鉄骨に
馬の毛で編んだといわれる紗を張り、漆で仕上げてある。
長さ四五センチ、幅二五・五センチ。
表には毘沙門天の梵字を配した日の丸を施し、裏には陰陽道による牛宿を除いた二七宿星が描かれており、実戦用としてではなく信仰的なものとされる。
同県東山梨郡大和村棲雲寺所蔵の軍配も信玄所用のものと伝え、鉄地で中央に水晶玉をはめ込んであり、日月と北斗星を配してある。縁に刀疵がある。

合戦

駿河進攻作戦
永禄十一年(1568) 静岡県静岡市とその周辺 城将・今川氏真
駿河攻めは信玄と徳川家康の共同作戦だった。家康の軍は十二月早々、岡崎を出て今川の領域遠江の掛川城へ向かった。信玄は信濃から帰陣し、十二月六日、大軍を率いて富士川沿いに南下し、油井口の内房(富士郡芝川町内房)に陣を構えた。しかし、今川軍は現れず、武田軍の先鋒隊はそのまま進攻して宇八原(清水市上原)に布陣、抵抗がないと知るや、信玄は十三日府中(静岡市)に乱入した。氏真と今川軍は戦わずして朝比奈泰朝の居城遠江・掛川城へ逃げた。駿府城占領十日後の十二月二十三日、信玄は浜松城に進出した家康に「三日以内に遠州に出馬するから早々に掛川城を攻撃せよ」と檄文を送った。家康は信玄の要請通り二十七日、掛川城を攻撃した。
たまたま信州・高遠城の武将で信玄の重臣秋山伯耆守信友は下伊那衆を率いて天竜川を南下、遠江に侵入、その下流の要地見附(磐田市)に陣を張っていた家康方の奥平貞勝、菅沼勝直・正貞らと交戦、岡崎ー掛川の軍事ルートを遮断した。このことで家康は信玄に疑惑を深め武田・徳川の同盟は崩れた。       
相模・小田原城包囲
永禄十二年(1569) 神奈川県小田原市 城将・北条氏政

武蔵の滝山城の城攻めを断念した信玄は十月一日、小田原攻めを敢行した。厚木、平塚の原野を下り同日朝七時ごろ小田原城外に到着、一色、酒匂の村落に放火し、城下の蓮池にあった武家屋敷を焼き払った。城内には北条一族と約一千人の城兵が残留していただけで北条軍は各地へ散っていた。突然の武田軍の奇襲に狼狽したが、難攻不落を誇る小田原城は、城攻めに備えて万全だった。しかし、城を包囲した信玄は攻撃する気配をみせず、四日間にらみ合いのまま時を過ごした。北条方の支城からの援軍が小田原へ急行している気配に信玄は四日朝、全軍に撤退命令を下し、津久井に向けて引き揚げをはじめた。   

相模・三増峠の合戦
永禄十二年(1569) 神奈川県津久井郡 城兵・北条氏政
小田原危機の情報が北条氏の支城にが伝達され、北条氏照・氏邦兄弟、遠山、大道寺の緒将の北条軍が小田原をめざして集結、武田軍が撤退してくる津久井・愛甲両郡堺の三増峠(神奈川県津久井郡)周辺数ヶ所に布陣して待ち構えた。十月六日早朝、騎馬を連ねて峠へ差しかかった武田軍に北条氏の火縄銃がいっせいに火を噴いた。戦列を乱した武田の将士と北条方の伏兵との斬り合いになった。信玄は深追いをせず、北条氏から離れて撤収するようにと命じ、側面から襲いかかる北条軍をなぎ払うかたちで速度を速めて峠を下った。その間、武田軍の小荷駄隊が捉えられ、二百余人の戦死者を出すなどの痛手を受けた。しかし作戦勝ちで北条軍に大打撃を与えた武田軍は、その日の夕方、津久井の道志川上流に着き夜営、翌七日、都留郡(山梨県北都留郡上野原町)の諏訪明神付近で休息した。信玄の小田原攻めは北条方を威圧する牽制作戦だった。
二俣城攻略(西上作戦の緒戦)
二俣城の天守台元亀三年(1572) 静岡県天竜市二俣 城将・中根正照
四月七日、信玄は西上作戦を敢行するにあたり甲斐の国加賀美(若草町)の法善寺に直筆の祈願書を納めている。西上作戦の幕があがったのは秋の収穫祭が終わった十月三日、甲信連合軍と北条の援軍を加えた大軍は信玄の指揮で甲府を出発。八ヶ岳山麓の棒道(軍用道路)を通過して信州街道(秋葉街道)から青崩を越えて遠江の北部へ出たのは十日だった。甲斐から関西へ出る最短距離を選んだ。
信玄は武田方の出城犬井城(静岡県周智郡春野町)で一週間前に出た山縣昌景指揮の先発隊と合流、ここで兵団を二分して、A兵団は只来(天竜市)を占領し、二俣城攻撃に備えた。B兵団は信州街道を下って久能城(袋井市)を包囲、木原宿、西島宿(磐田市)など袋井周辺に分宿して徳川軍を牽制した。信玄は二俣城一点に戦闘をしぼり、袋井・見附方面を確保し、天竜川左岸を北上して匂坂(磐田市・磐田郡豊岡村)を押え、進んで合代島(磐田市豊岡村)に陣をしき、四月末、攻撃を開始した。勝頼を大将とする攻撃隊は十数回にわたって昼夜を分たず城攻めを敢行した。十一月下旬、一か月の籠城で食糧、水を断たれた城内の将士の苦しみ隠しきれず、武田軍の総攻撃の前に総崩れして中根正照らは人質として捕えられた。浜松城から来援した家康の軍は、武田軍の守備に圧せられて途中で釘づけになり、中根らの人質交換を条件に全軍浜松城へ引き揚げた。             
遠江・三方ヶ原の合戦
敗走した徳川家康元亀三年(1572) 静岡県・浜松市初生町周辺 城将・徳川家康
十二月二十二日早朝、信玄は二俣城を出発した。家康は、信玄の西上を阻止する構えを示し、織田の援軍と徳川全軍を引き連れて浜松城を出発、武田の大軍が通過すると予想される都田、金指付近で待機した。ところが、信玄の本隊は西へは向かわず、秋葉街道を南下し始めた。その方向には浜松城があった。慌てた家康は、浜松城に引き返し城を固めた。ところが武田の大軍は、浜松城まで下る途中、姫街道を北進して三方ヶ原の北方祝田(引佐郡細江町中川)の坂へ向かった。ここで家康は、信玄が浜松城を攻める意思がなく西へ向かう計画だと推測し、武田軍を追った。家康は信玄の陽動作戦に完全に乗せられたかたちとなった。
地の利を得ていた家康の軍は祝田の坂を下り始めた武田軍を背後から攻撃する戦闘体形を整えて迫った。信玄は逆に坂の上で全軍を停止させ、追跡した徳川・織田連合軍を迎え撃つ戦闘配置をとった。右翼に山縣昌景、中央に小山田信茂、予備隊に武田勝頼、内藤昌豊、左翼に馬場信春、総予備隊に信玄、後見役に穴山信君(梅雪)を配した。徳川軍の右翼に酒井忠次、中央に石川数正、大久保忠世、左翼に本多忠勝、総予備に家康、後見役に平手汎秀、佐久間信盛ら織田方の援軍が控える陣立てで武田軍の背後に横列になって迫った。陽は西に沈み、三方ヶ原は夕闇に包まれ始めた。武田軍の農兵のつぶて、すなわち石投げで戦端は切られ乱闘になっていった。百戦錬磨の武田軍は緒戦から優勢だった。夜間の合戦に慣れていない徳川・織田勢は完全に乱れて後退した。浜松城では、家康討ち死にのデマが流れたという。勝頼を総指揮とする予備隊に追撃され家康とおもな武将はほうほうの態で浜松城へ逃げ帰った。家康の家臣では二俣城の守将・中根正照、青木貞治らが戦死、織田の援軍では平手汎秀が戦死、佐久間信盛は戦いを避けて部下一兵も減ぜず逃げ帰ったという。