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信玄は家督を継いでからしばらくの間、父親追放の混乱を鎮めるために、自己の立場を強化しながら甲斐国内の統治に当たったが、家臣の領土拡大や領民の物資希求に応えるため、対外侵略に乗り出さねばならなくなった。当時の環境は気候変動が大きく、自然災害が続き、人々は食糧難にあえいでいたので、信玄は甲斐国の守護として国民の生活保障をしてやる必要があったからである。
■諏訪法性兜
甲陽軍鑑の記述にある兜として知られ
江戸時代中期の人形浄瑠璃『本朝二十四孝』
狐火の段で、八重垣姫がかざして有名になる。
法性とは仏教でいう万有の本性で、
諏訪法性は諏訪明神を表している。
諏訪明神の守護と戦勝をもたらすために
清められたもので
信玄が晴信時代に使用したと伝えられる。
長野県・下諏訪町立博物館蔵

合戦


海ノ口城攻略戦
海ノ口城主郭部の巨石天文五年(1536) 長野県南佐久郡南牧村 城将・大井貞隆 援将・平賀源心
十一月二十一日、父武田信虎に従い初出陣。八千余の武田軍は海ノ口城を包囲。大雪と必死の抵抗に阻まれて三十四日間、数回にわたり攻撃したが落城せず、信虎は甲府に帰城した。十二月二十六日、殿軍(しんがり)として残った晴信は三百余騎を引き連れて海ノ口城に引き返し、油断していた平賀軍の虚を突いて一瞬にして城を攻め落とした。後世の『甲陽軍鑑』 『武田三代軍記』に見えるが、確実な史料には登場しない。
        
諏訪攻略

諏訪湖天文十一年(1542) 長野県諏訪市一帯 城将・諏訪頼重 頼高兄弟
信虎追放後一年、晴信は六月二十四日、諏訪攻略の号令を出した。諏訪領の諏訪頼重・頼高兄弟と同族の高遠頼継、諏訪上社の矢島満清、下社の大祝金刺ら禰宜一党の反乱に便乗し、晴信は高遠勢力と結託して妹の夫である同盟者の頼重を滅ぼすための出陣であった。七月二日、高遠頼継が杖突峠から諏訪盆地へ乱入したため、諏訪頼重は桑原城に退いた。七月四日、諏訪氏の居城桑原城を包囲した武田軍は頼重に和議を申し入れ、頼重は城を明け渡して降伏した。翌五日に頼重兄弟は甲府に送られ、東光寺に幽閉される。二十一日に頼重は自害した。   

高遠城攻略
天文十四年(1545) 長野県上伊那郡高遠町 城将・高遠頼継
福与城攻略の失敗で、抵抗を続ける高遠頼継を一挙にせん滅するため、武田軍は四月十一日、晴信麾下七千余の部下を引き連れて高遠城の攻略に向った。十四日は上原城で一泊、翌十五日未明、杖突峠を越えて、武田の先方隊は高遠城を襲った。攻防戦は二日間に及んだが、十七日には頼継は城を捨てて逃げた(高白斎記)。
小田井原の合戦
天文十六年(1547) 長野県北佐久郡御代田町小田井 城将・上杉憲政重臣 金井秀景
信州佐久の志賀城主笠原新三郎清繁は、上野国平井郷(群馬県藤岡市)の関東管領上杉憲政を後ろ盾にして晴信の降伏勧告を拒絶し、援将高田憲頼とともに志賀城に立て籠もった。その兵力、家族を含めて約五百人。武田軍は約五千の将兵を従えて閏七月十三日甲府を出陣。二十日、桜井対馬守の居城稲荷山城(佐久郡臼田町)に到着、二十四日早朝から志賀城を攻撃した。峻険な山容を利用しての城攻めは容易に落ちず、城内に流れ込む水の手を止めるなど苦肉の策を講じたが笠原軍は屈しなかった。八月五日、上杉方の副将金井秀景を総指揮とする援軍三千余騎が碓氷峠を越えて志賀城へ向かった。この情報を察知した武田軍の板垣信形、横田備中守高松、甘利虎泰、多田三八ら諸将の指揮で四千の兵力を小田井原まで走らせて迎え撃った。時に八月六日未明、不意を突かれて上州軍は戦列を乱し、武田軍が圧勝した。打ち取った侍大将の首級十五、中間・雑兵の戦死者二千を超えたという。           
志賀城の合戦
志賀城跡天文十七年(1548) 長野県佐久市志賀地区 城将・笠原新三郎清繁 援将・高田憲頼
八月六日、浅間山麓の小田井原の合戦で討ち取った上州軍の首級五百余を晴信が首実検した後、槍の穂先に刺して志賀城の本丸下に掛け並べ、援軍をことごとくせん滅したことを城兵に知らせた。城兵は戦意を喪失し、覚悟を決めた笠原新三郎清繁は八月十日早朝、大手門を開いて武田軍に総攻撃をかけた。必死で戦う笠原軍の猛攻に、武田軍は城内に入りこみながら容易に城を落とすことができなかったが、翌十一日、これを落とすことに成功した。(高白斎記)
清繁とその二児は自害、高田繁頼父子は討ち死にした。城内で捕えられた笠原夫人、女、子ども百人余りはそのまま甲府へ護送されて一人三貫から十貫で売買された。笠原夫人は小山田信有が拝領して岩殿城に連れ帰ったという。(勝山記) 
上田原の合戦
上田原古戦場碑天文十七年(1548) 長野県上田市上田原地区 城将・村上義清
佐久一帯を支配した晴信の専横に葛尾城(長野県埴科郡坂城町)の村上義清が真正面から挑んだ。武田追い出しの行動は正月十八日の極寒をねらって開始された。晴信が義清と対決するために甲府を出たのは二月一日、諏訪から進路を北にとり、大門峠を越えて小県郡に入り、葛尾城の背面から襲う予定だった。武田・村上両軍の合戦は二月二十四日早朝、雪深い千曲川の支流産川、浦野川の川原で開始された。緒戦は武田軍が優勢であったが、土地勘のある村上軍が力を盛り返し、深追いした板垣信方、甘利虎泰、才間河内守、初鹿野伝右衛門ら信玄を支えた重臣、近臣は討ち死にした。信玄自身も左腕に槍傷を受けたといわれ、戦闘六時間に及ぶ激戦であったという。(勝山記)
塩尻峠合戦
天文十七年(1548) 長野県岡谷市塩嶺地区 城将・小笠原長時
上田原の敗戦で打撃を受けた武田軍の衰えに乗じ、林城(松本市)の小笠原長時が一挙に反抗に出た。長時は村上義清、安曇郡の仁科一族、再び武田方から離反した長時の義弟藤沢頼親らと図り、約五千の信濃連合軍をを率いて、四月中旬、諏訪へ進攻した。晴信は軍備を整え、七月十一日に武田軍約三千の騎馬隊を率いて出陣、信濃の反乱軍を一挙にせん滅する機会をねらっていた。小笠原軍が塩尻峠に集結しているのを知った晴信は七月十八日夕刻、県堺の大井ヶ森(山梨県北巨摩郡長坂町)に密かに騎馬隊を集結させ、夕暮れを待って進撃を開始、途中、上原城で小休止したのち、翌十九日午前二時過ぎ、いっせいに塩尻峠をめざして進み、小笠原長時の本陣を奇襲した。寝込みを襲われた小笠原軍は狼狽し敗走した。小笠原軍の戦死者は千人を超えた。武田軍は敵の掃討を繰り返し二十五日、上原城へ帰城した。
砥石城攻防戦
砥石城跡天文十九年(1550) 長野県上田市神科 城将・村上義清
砥石崩れといわれ、武田軍は上田原の合戦に次ぐ惨敗を記録した壮絶な攻防戦であった。八月十九日、武田晴信は小県郡中最大の堅城である砥石城を攻めるため、甲府を出発した。この戦いは、筑摩・安曇、それに諏訪・伊那・佐久を制圧した晴信にとって、徹底抗戦の体を見せる 埴科郡の葛尾城主村上義清を倒すことを目的としたものであった。晴信は村上軍が砥石城に集結しているという情報を受けて、約五千の精鋭を引き連れて諏訪を出発し、八月二十八、砥石城近くの屋降に本陣を構えた。九月九日夕刻、総攻撃を敢行。山城によじ登る武田軍と村上軍の城兵との死闘が開始された。砥石城およびその周辺での両軍の合戦は八日間も続き、武田方では重臣横田備中守高松以下多くの戦死者、負傷者を出した。城内にいるはずの村上義清が、武田方の背後を突いて攻めよせた。挟み撃ちにされた武田軍は城下で総崩れし、十月一日、晴信は全員に退去を命じ、二日朝、諏訪へたどり着いた。(高白斎記)