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戦国大名の一族は個人としての自由はほとんどなく、家に従属して家の永続のために利用された。女性たちは父や兄の権力の大きさや社会情勢に応じて、同盟関係を前提に嫁ぎ先が決められた。兄弟たちは武田家を支えるために、ほとんどの者が軍事力の一翼を担い、当主の領国統治を手伝い、戦乱の中で死んでいった・・・・

武田信虎(信玄の父)
武田信虎像
明応三年(1949)正月六日生まれ。永正四年(1507)、父信綱が没し、十四歳で家督を継いだ信虎は、翌五年、叔父信恵父子や岩手綱美らを敗死させ、骨肉の争いに終止符を打ち、惣領家の地位を守った。その後も郡内領主小山田氏との抗争、大井氏・栗原氏・今井氏・穴山氏ら数代前に本家から分岐した武田一族の反抗、さらにかれらと結んだ北条氏・今川氏・諏訪氏ら隣国大名の侵攻などを克服して甲斐の領国統一を遂げ、さらに関東・駿河・信濃へと対外政策を展開していった。
この間、永正十六年(1519)には居館を石和から躑躅ヶ崎に移して領国経営の拠点とした。また翌年には籍翠寺丸山に要害城を築き防御施設とした。天文元年(1532)には国内平定を遂げた。同四年には駿河に侵入するが失敗、そのため諏訪氏と同盟するとともに、同六年には一転して今川氏と同盟を締結した。同九年から信濃佐久郡への侵攻を開始する。翌十年六月十四日に娘婿の今川義元のもとに赴くが、嫡子信玄のクーデターにより、駿河に追放された。その後は駿河や京都において過ごし、また、出家して無人斎道有と称した。信玄が死去した翌年の天正二年(1574)に信濃高遠に帰着、三月五日に八十一歳で死去し、甲府大泉寺に葬られた。

大井夫人(信玄の母)
大井夫人像
明応六年(1497)十一月十七日生まれ。大井信達の長女。武田信虎の正室。野ブタ虎との婚姻時期は正確ではないが、永正十二年(1515)に両者の抗争が展開された際、「武田兄弟矛盾」と評されていることから、それ以前に成立していた可能性が高い。同十六年に長女定恵院殿、大永元年(1521)に嫡子信玄、同五年に四男信繁を産む。夫信虎が信玄によって駿河に追放された後も、そのまま甲府にとどまり、出家して躑躅ヶ崎館の北曲輪に居住したため、「御北様」と称された。天文二十一年五月七日に五十五歳で死去。

武田信玄の兄弟と子女

信虎──信玄───────義信
             竜芳          
    信繁       信之  
    信廉       勝頼              
    信是       盛信
    宗智       信貞
    信実       信清
    信竜       長女(北条氏政室)
    信友       次女(穴山信君室)
    長女(今川義元室)   三女(木曾義昌室)      
    次女(穴山信友室)  四女
    三女(諏訪頼重室)  五女(信松尼) 
    四女(浦野氏室)   六女(上杉景勝室)
    五女(大井信為室) 
    六女(下条信氏室) 
    七女(禰津神平室)
    八女(葛山氏室)
    九女(菊亭晴季室)
        

信玄の子供

■武田義信

天文七年(1538)生まれ。信玄の長男。母親は円光院殿(三条氏)。仮名太郎。同十九年十二月七日に十三歳で元服、同二十一年正月八日に具足始めを行い、十一月二十七日に駿河今川義元の長女を正室に迎えた。同二十二年七月二十三日に将軍足利義輝の偏飯諱をうけて実名を義信と名乗った。同二十三年八月には十七歳で初陣し、信玄に従って信濃伊那郡の平定にあたっている。弘治二年(1556)には足利義輝より三管領に準じられ、翌三年からは信玄と連署で文書を発給するようになっている。この後、信玄の嫡子として徐々に武田氏権力において重きをなしていったとみられるが、永禄八年(1565)頃から対今川氏政策をめぐって信玄と対立し、八月頃に宿老飯富虎昌らと謀って謀反を企てたが失敗、甲府東光寺に幽閉され、同十年十月十九日に自害させられた。三十歳。

■武田竜芳

天文十年(1541)生まれ。信玄の次男。母は円光院殿(三条氏)。始め信濃小県郡の国衆海野幸義の娘を娶り、その名跡を継承して海野二郎信親と称したが、生まれながらの盲目であったため、やがて長延寺実了の弟子となり、半俗半僧の修行者として「御聖道様」と称された。天正十年(1582)三月七日に甲府において織田信忠に殺害された。四十二歳。

■武田信之

西保三郎と称した。信玄の三男。三条夫人が母であるが、わずか十歳で死去した。

■武田勝頼

天文十五年(1546)生まれ。信玄の四男。母は諏訪御料人。仮名四朗、家督継承後に官途名大膳大夫を称す。永禄五年(1562)に母の実家諏訪氏の名跡を継承し、信濃高遠城主となる。同八年十一月十三日に尾張織田信長の養女で、その妹婿の美濃稲木城主高遠直廉の娘を妻に迎えた。同十年の兄義信の死後から、信玄の実質的な嫡男として活躍をし始め、元亀二年(1571)末には正式に嫡子と定められて躑躅ヶ崎館に移り、名字も武田氏に改めた。天正元年(1573)四月の信玄の死去により家督を継承した。織田・徳川両氏との抗争を展開し、同五年には相模北条氏康の妹を後妻に迎えるが、同六年の越後御館の乱を契機に、越後上杉氏と同盟し、北条氏とも抗争を展開した。同十年三月十一日に田野において戦死した。三十七歳。

■武田(仁科)盛信

弘治三年(1557)生まれ。信玄の五男。母は側室油川氏の娘。仮名五郎。永禄〜元亀頃に信濃安曇郡の国衆仁科盛政の名跡を継承して仁科氏を称す。名跡継承後、仁科氏の本拠森城に入り、仁科領を支配するが、その初見は天正四年(1576)である。同九年に南信濃の防衛態勢強化のために、叔父で岳父の武田信廉に代わって高遠城主となる。しかし、翌年十二月より織田氏の侵攻を受け。頑強に抵抗したものの、三月二日に戦死した。二十六歳。

■武田信清

永禄六年(1563)生まれ。信玄の七男。母は信濃小県郡の国衆祢津神平の娘とされるが不明。幼名大勝。同十年に加賀美法善寺に入って法名を玄竜と号した。天正六年(1578)に兄勝頼の命によって還俗、甲斐源氏の旧族安田氏の名跡を継承して、安田三郎の信清と名乗った。妻は長延寺実了の娘。同十年の武田氏滅亡の際は、高野山無量光院に逃れ、のちに姉菊姫を頼って越後に赴き、上杉景勝の家臣となった。名字を武田氏に改め、官途名大膳大夫を称し、上杉氏の一門に列せられた。寛永十九年(1642)三月二十一日に八十歳で死去。子孫は米沢藩上杉氏の家臣として続いた。

■長女 黄梅院殿

天文十二年(1543)生まれ。母は信玄の正室・円光院殿(三条氏)。相模北条氏政の正室。天文二十二年正月に婚約が成立、翌二十三年十二月に嫁した。弘治元年(1555)十一月八日に長男を産んだが夭折したという。永禄十一年(1568)に信玄が駿河に侵攻したため、同盟は破棄され、甲斐に送還された。翌十二年六月十七日に二十七歳で死去。北条氏直の母。

■次女 見性院殿

母は信玄の正室・円光院殿(三条氏)。穴山武田信君室。永禄初年頃に信君に嫁したとみられ、元亀三年(1572)に嫡子勝千代を産む。天正十年(1582)に本宗家滅亡後、武田氏家臣秋山虎康の娘於都摩(下山の方)を夫婦の養女として、徳川家康の側室とする。翌年出生した家康五男万千代によって、同十五年の勝千代の死後、その名跡は継承されるが、慶長八年(1603)に嗣子なく死去。晩年を江戸田安の比丘屋敷で送り、徳川秀忠の庶子幸松丸(保科正之)を養子分として養育するなどした。元和八年(1622)五月九日に死去。

■三女 真竜院澱

万理姫という。天文十九年(1550)生まれ。母は油川氏。信濃木曽郡の国衆木曽義昌室。天正五年(1577)に長男義利を産んだほか、二男二女を産む。木曽氏は同十八年に下総に移封され、さらに子義利の代の慶長五年(1600)に改易されると、末子義道をともなって木曽谷に帰って黒沢に隠棲した。正保四年(1647)七月十日に九十八歳で死去。

■四女 桃由童女

天文二十三〜二十四(1553〜54)頃生まれ。母氏不詳。永禄元年(1558)四、五歳で夭折。

■五女 大儀院澱

永禄六年(1563)生まれ。母は油川氏。名は菊姫。越後上杉景勝の正室。元亀年間頃に伊勢長島願証寺と婚約したが、信玄の死去により破談。その後、天正六年(1578)十二月に、上杉氏との同盟成立をうけて、新当主景勝と婚約、翌七年十月二十日に嫁した。上杉氏の羽柴氏への従属後、京と伏見屋敷に居住し、慶長九年(1604)二月十六日に同地で死去。四十二歳。

■六女 信松院澱

永禄四年(1561)生まれ。母は油川氏。名は松姫。永禄十年(1567)十一月に織田信長の嫡子信忠と婚約したが、元亀三年(1572)になって、両氏の敵対により破棄された。天正六年(1578)に出家し、同九年に兄盛信の計らいで信濃高遠城内の新館に移り、新館比丘尼と称された。同十年の武田氏滅亡に際しては、高遠城から武蔵八王子に逃れ、同地の心源庵で隠棲し、信松尼と号して余生を送る。元和二年(1616)四月十六日に五十六歳で死去。

信玄の兄弟(信虎の子供)

武田信繁
大永五年(1525)生まれ。信虎の四男。母は信玄と同じく大井夫人。仮名次郎、官途名左馬助。天文二十年(1551)武田氏庶流の吉田氏名跡を継承(高白斎記)。永禄元年(1558)四月には嫡子長老(信豊)に主家への奉公の心得などを説いた「異見九十九箇条」を与えている。これは武田氏の家訓として分国法「甲州法度之次第」を補足するものとしての性格を持った。信玄の信頼が厚く、信玄に代わってしばしば全軍の総大将を務め、「副将」と俗称されるほどであったが、永禄四年九月十日の川中島の合戦において三十七歳で戦死した。        
武田信廉
天文元年(1532)生まれ。信虎の六男。母は大井夫人といわれるが、生年からみて疑問。仮名孫六、官途名刑部少輔。信玄の死後に出家して逍遥軒信綱と称した。永禄四年の兄信繁戦死後から、信玄に最も近い弟として重要な位置を占めていったとみられる。元亀元年(1570)に内藤昌秀に代わって信濃深志城代、同二年には勝頼に代わって信濃高遠城主を務めた。天正九年(1581)には、信濃南部の防衛態勢強化として、高遠城主には娘婿の仁科盛信(信玄五男)が代わり、信廉はその北方の大島城に在城した。翌十年二月の織田氏の進攻にあたってはほとんど抵抗をみせず甲斐国に後退、三月七日に鮎川原において織田信忠に殺害された。五十一歳。信廉は絵画に巧みであり、父信虎蔵、同室瑞雲院殿画像などの作品を残している。   
武田(松尾)信是
信虎の五男。一族の松尾氏を継承して民部少輔を称したが元亀二年(1571)には死去している。
武田信智
出家して恵林寺に入っており詳細は不明。            
武田(川窪)信実
信虎の十男。官途名兵庫助を称す。阿窪郷などを所領とした。元亀二年(1571)の兄信是の死後、嫡子信俊がその遺跡を継承すると、信是の遺領もあわせて管轄した。天正三年(1675)五月二十一日の三河長篠の合戦では鳶ノ巣砦を守備したが、徳川軍の攻撃によって戦死した。
武田(一条)信竜
信虎の九男。甲斐源氏の名族一条氏の名跡を継承。官途名右衛大夫、天正八年(1580)頃より受領名上野介を称す。市川郷の上野城を本拠とした。信玄の宿老山県昌景や馬場信春に次ぐ武人の人として評され、信玄の駿河進攻後は、駿河駿府城代・田中城代などを務めた。また元亀期には大和松永氏や摂津石山本願寺との外交を担当している。のちに田中城代を嫡子信就と交代し、信竜は武田信堯(信玄甥)とともに駿府城代を務めたという。しかし、天正十年二月に徳川氏の侵攻をうけて、三月二日に甲斐に後退、十日に上野城で徳川氏と戦って戦死した。   
武田信友 
信虎の子。受領名上野介。母は内藤氏。信虎の駿河隠遁後、そのもとにおり、官途名左京亮を称したとみられている。永禄十一年(1568)十二月に信玄が駿河に侵攻してくると今川氏から離反してこれに従った。元亀元年(1570)より受領名上野介を称す。しかし、天正三年(1575)の三河長篠の合戦を契機に隠遁し、同十年の武田氏滅亡の時、三月七日に甲府で織田信忠に殺害された。
長女
今川義元夫人。永正十六年(1519)生まれで、母は信玄と同じく大井夫人である。駿河今川家の当主となった義元のもとに嫁ぎ、甲駿同盟の成立に一役買っている。義元の後を継ぐ嫡男氏真の母であり、ほかに二女をもうけている。その長女は後に信玄の嫡男の義信の妻となって甲府に赴いている。   
次女
穴山信友夫人であり、母親は側室の内藤氏の娘。天文十年(1541)には長男・信君が出生しており、出家して南待院といい、永禄九年(1566)四月に病死している。信君の妻は信玄の次女であり、両家は重縁の関係にあった。この妹は見性院と称し、武田家・穴山家の滅亡後も長生きして、武田家復興のために尽力している。   
三女
禰々(ねね)御料人といい、享禄元年(1528)に生まれ、十三歳で諏訪領主の諏訪頼重のもとに嫁している。これも同盟を前提にした政略結婚である。禰々は二年後の四月に嫡男・寅王を産むが、その直後の七月に信玄は諏訪氏を攻め滅ぼしている。禰々は寅王とともに甲府に引き取られたが、心労のため翌年正月に病死している。  
四女
信濃小県郡の地侍の浦野氏に嫁ぐ。   
五女
亀御料人。天文三年(1534)生まれ。母は側室楠浦氏の娘。。父信虎が駿河へ追放された時はわずか八歳であり、そのためか信玄の養女となり、母大井夫人の実家の大井信為に嫁ぐ。天文二十一年(1552)五月に、十九歳で病死している。   
六女
下伊那郡の領主である下条信氏に嫁ぐ。   
七女
信濃小県郡の地侍の禰津(ねつ)神平に嫁ぐ。   
八女
葛山播磨守信貞夫人。信虎が駿河退隠後に出生している。葛山氏は駿河駿東郡領主。
九女
菊御料人。信虎が駿河退隠後の天文十四年の生まれ。今川義元の斡旋によって公家の菊亭晴季(はるすえ)夫人となる。