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人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、讎(あだ)は敵なり

躑躅ヶ崎館跡■武田氏館(躑躅ヶ崎館) つつじがさきやかた
山梨県甲府市古府中町・屋形三丁目
甲府盆地北側の相川扇状地開折部に造営され、半島状に突出した躑躅ヶ崎に接して位置することから躑躅ヶ崎館とも呼ばれる。武田信虎により永正十六年(1519)八月、それまでの川田館(現甲府市市川田町)から、この地に移り、以後、軍事的緊張の高まりを背景として天正九年(1581)十二月、武田勝頼により新府城(山梨県韮崎市)へ移転するまで武田三代にわたる居館であった。館は堀と土塁で囲まれた二町四方の主郭部を中心とし、さらには、その主郭部が南北基幹街路の基軸戦場に位置するなど館移転の当初から城下町建設を視野に入れた計画的な配置がうかがわれる。『高白斎記』によれば、永正十二年四月十日に籍翠寺の客殿の柱が立ち始め、五月二十四日には残らず柱が立ち、棟上げがなされたとある。現在は信玄を祭神とする武田神社が建っている。国指定史跡。

信玄使用井戸 武田神社裏

山梨県の城 


■岩殿城(いわとのじょう)

山梨県大月市賑岡町岩殿山
郡内に勢力を張った小山田氏の本城という位置づけがされてきたが、近年では武田氏の直轄の城という見方が有力になっている。天正九年(1581)に武田氏が萩原豊前に宛てた文書には、甲斐の国中の同心十人が本城に在番していた様子が見えるが、他に史料が少なく、未解明の部分が多い。

■勝沼氏館(かつぬましやかた)

山梨県東山梨郡勝沼町勝沼字御所
武田信玄の父信虎の同母弟である勝沼五郎信友が居住したと伝えられ、甲府盆地東部一帯から郡内方面に対する防御の拠点となっていた。『甲陽軍鑑』には、永禄三年(1560)に「逆心の文あらわれて。勝沼五郎どの御成敗也」と見え、信友の子信元の代に謀反の疑いで信玄によって成敗されたと記録される。

■勝山城(かつやまじょう)

山梨県東矢代郡中道町上曽根字勝山
15世紀から16世紀の初めころには武田氏の一族である油川氏の本拠であったと推察されているが、油川氏以後の永正・大永年間には、武田信虎に抗する西郡の雄大井氏との合戦の表舞台となり、駿河今川氏やその武将福島正成らの拠るところとなった。武田氏滅亡後の天正十年(1582)には峡東方面を固める徳川方の本拠となり、修築された。

■獅子吼城(ししくじょう)

山梨県北巨摩郡須玉町江草字城山
『甲斐国志』によれば、応永年間に武田信満の三男江草兵庫信泰が居城したと伝えるが詳細は不明。天正十年(1582)には北条方が拠ったものの、徳川方に与した津金衆らに攻められ落城したと記録される。

■要害城 熊城(ようがいじょう くまじょう)

要害城跡山梨県甲府市上積翠寺町要害山
武田氏館(躑躅ヶ崎館)の詰城として築かれ、武田信玄誕生の地とも伝わる。諸史料には積翠寺の丸山・丸山の城(高白斎記)・石水寺(甲陽軍鑑)・積翠寺御要害(武田勝頼印判状)と見える。その他、要害山城・籍翠寺城・要害山など多くの別称がある。武田信虎による躑躅ヶ崎館への移転の翌年、永正十七年(1520)六月に築城された。慶長五年(1600)、廃城となった。また、要害城の南東には現在では熊城と呼ばれる要害城南の守りを補う支城がある。ともに国指定史跡。

長野県の城 


■旭山城(あさひやまじょう)

旭山城跡長野県長野市安里字平柴
越後の上杉方の葛山城に対峙して武田氏が善光寺平支配の軍事的拠点とした。山頂に置かれた主郭を中心に大堀切や土塁で囲繞されたいくつかの郭が並び、横堀や石積みもめぐり、堅固な様相を示している。

■飯田城(いいだじょう)

長野県飯田市追手町
天文二十三年(1554)七月から開始された武田氏の下伊那侵攻により武田方の属城となり、下伊那における中核的な城となった。天正十年(1582)二月十四日、甲州討伐を開始した織田軍の攻撃目標となる。江戸時代、飯田藩の本拠となり、明治維新に至るまで城は存続した。

■上原城(うえはらじょう)

上原城跡長野県茅野市ちの上原
諏訪地方の統治のために諏訪総領家が築城したものと推定されるが、天文年間に武田氏によって修築され、重臣板垣信方が諏訪地方の支配の拠点として在城した。長野県指定史跡。

■海ノ口城(うんのくちじょう)

海ノ口城跡長野県南佐久郡南牧村海ノ口大芝
佐久郡の最南端に位置し、甲信境目の城である。天文五年(1536)、武田信玄が平賀源心を討ち取り、初陣の功名をあげた城とされるば、確実な史料による裏づけはない。

■大井城(おおいじょう)

長野県佐久市岩村田字荒宿
中世の大井氏の居城。石並み城・王城・黒岩城からなり、幅約百メートル、南北約七百メートルに及ぶ広大な地域をもっている。戦国期には武田氏側についた大井貞隆らが居城した。

■大島城(おおしまじょう)

大島城跡長野県下伊那郡松川町元大島古町
築城時期不明。元亀二年(1571)に武田氏によって修築され、下伊那地方の拠点とされた。日向玄徳斎が守衛としていたが、天正十年(1582)に落城、以後、廃城となった。

■岡城(おかじょう)

長野県上田市岡字城
天文二十二年(1553)以降、武田氏によって北信濃の前線基地として築かれたという。

■小諸城(こもろじょう)

長野県小諸市丁字城跡
天文年間以降、武田氏の支配下に置かれた。現在の小諸城は天正十八年(1590)以後、この地を安堵された仙石秀久によって大改修されたものである。市指定史跡。

■高遠城(たかとおじょう)

長野県上伊那郡高遠町東高遠
天文十六年(1547)に武田氏によって改修され、以後、伊那地方の支配の拠点の一つになったが、築城当初の姿は詳らかではない。天正十年(1582)の武田氏滅亡直前、織田郡と壮絶な戦いを行い、落城した。現在、国指定史跡。

■深志城(ふかしじょう)

松本城長野県松本市丸ノ内
松本盆地の中央にあり、武田氏の信濃支配の拠点となった城である。現在は松本城として国指定史跡となり、国宝の天守をもつ。武田氏以前の深志城に関しては築城時期や規模、築城者など諸説があって定かではないが、この地に侵攻した武田氏は天文十九年(1550)に改修の鍬立てを行い、城下の経営に乗り出している。天正十年(1582)の武田氏滅亡までの約30年、馬場美濃守信春をはじめ重臣が城代を務めた。

■牧之島城(まきのしまじょう)

牧之島城跡長野県上水内郡信州新町牧野島
松本から長野方面と、糸魚川街道をにらむ交通の要衝にあり、武田氏の支配領域の最前線にある。香坂氏の本拠であったが、永禄四年(1561)の同氏滅亡後、武田氏の支城となり、改修された。県指定史跡。

■松尾城(まつおじょう)

長野県飯田市松尾古城
天文二十三年(1554)七月から開始された武田方の下伊那侵攻により武田方の属城となった。

群馬県の城


■石倉城(いしくらじょう)

群馬県前橋市石倉町上石倉
永禄八年(1565)二月、信州諏訪上社、新海大明神(長野県南佐久郡臼田町)に箕輪城攻略を祈願し、西上野攻略を開始した武田信玄は倉賀野城を攻め落とし、その直後に厩橋・箕輪間を分断するため石倉城を築いたという。元亀三年(1572)以後、しばしば越後上杉謙信と争奪戦を繰り広げている。

■倉賀野城(くらがのじょう)

群馬県高崎市倉賀野
長尾景虎に対し相模北条氏康と共同で関東進撃を開始した武田信玄は永禄六年(1563)、倉賀野城に倉賀野左衛門五郎直行を攻めている。以後、西上野攻略を本格化し、永禄八年(1565)五月の倉賀野落城まで連年、攻撃を繰り返している。天正十年(1582)、武田家滅亡により織田信長の将滝川一益が支配するが、神流川合戦で没落し、北条方の属城となった。天正十八年(1590)、豊臣秀吉による小田原征討により落城、廃城となる。

■根古屋城(ねごやじょう)

群馬県高崎市山名町城山
西上野において相模北条氏に備えるため武田信玄が築いたという。

■箕輪城(みのわじょう)

箕輪城跡群馬県群馬郡箕郷町東明屋・西明屋
国人領主長野業尚の築城と伝えられる。長野氏は配下に箕輪衆を率い、一貫して西上野の上杉方の中心勢力として活躍した。永禄八年(1565)二月、武田信玄は諏訪上社に願文を納め、西上野攻略を進めた。翌九年九月二十九日、城下を焼かれ、箕輪城は落城した。武田家滅亡まで箕輪城は西上野における分国支配の拠点であった。慶長三年(1598)廃城となる。

静岡県の城


■庵原城(いはらじょう)

静岡県清水市庵原町草ヶ谷字城山
永禄十一年(1568)、武田氏の帰城となり、朝比奈氏が守衛した。天正十年(1582)、武田氏滅亡とともに廃城となった。

■江尻城(えじりじょう)

静岡県清水市江尻町・二の丸町・小芝町)
永禄十二年(1569)正月、駿河に侵攻した武田信玄が今福和泉守を奉行とし、馬場美濃守信房に縄張りを命じて築城した。さらに元亀三年(1572)、二月にも普請を行い、山形三郎兵衛尉昌景が入城した。天正三年(1575)、武田勝頼により、親族衆の筆頭穴山信君が城主となり城の大改造を実施し、江尻を城下とする独自の領国経営を行った。天正十年(1582)三月四日、徳川の軍門に降り、江尻城は開城した。その後、慶長六年(1601)、廃城。

■大宮城(おおみやじょう)

静岡県富士宮市元城町
富士浅間神社の大宮司富士氏の拠点であったといわれている。今川氏の被官としても活躍したが、永禄十二年(1569)、武田氏の軍門に降り、以後当城は武田氏の支城となった。

■葛山城(かづらやまじょう)

静岡県裾野市葛山字富士畑
東駿一帯に勢力を張った今川氏の国人、葛山氏ほ本拠地である。葛山氏は今川義元討ち死に後、永禄十一年(1568)、武田方に服した。後年、信玄六男が葛山氏の名跡を継ぎ、葛山信貞と名乗っている。

■蒲原城(かんばらじょう)

静岡県庵原郡蒲原町蒲原字城山
戦国時代、今川氏支城の一つであった。永禄十二年(1569)十二月、今川氏を援助し、城を守備する北条勢と駿河侵攻を進める武田勢とが激戦を展開している(『甲陽軍鑑品第三十六』。その後、天正十年(1582)三月まで武田方の支城となる。

■久能山城(くのうさんじょう)

静岡県静岡市根古屋
永禄十一年(1568)、駿河に侵攻した武田信玄によって、この地にあった久能寺を他に移して築かれ、駿河湾一帯の監視と防衛の拠点とした。城主は今福父子。武田氏滅亡後は徳川方の属城となり、家康の関東移封後は豊臣家大名が城主となった。

■興国寺城(こうこくじじょう)

興国寺城空堀静岡県沼津市根古屋
北条早雲が本拠としていた城。天正二年(1574)には武田氏が支配することになるが、武田氏滅亡後は徳川家康の属城となる。国指定史跡。

■小長井城(こながいじょう)

静岡県棒原郡本川根町藤川字小長井
駿河・遠江方面への交通の要塞にあり、永禄十一年(1568)の武田氏の駿河侵攻により武田方に従属したと推定されている。

■小山城(こやまじょう)

静岡県棒原郡吉田町片岡能満寺山
元亀二年(1571)、武田氏によって本格的に修築され、徳川方に対する重要な前線基地の一つとなった。

■相良城(さがらじょう)

静岡県棒原郡相良町相良
天正四年(1576)、武田氏が築城。相良川右岸に立地し、武田氏の水軍の本拠の一つという。

■薩埵山砦(さったやまとりで)

静岡県清水市興津井上町字陣馬
永禄十一年(1568)十二月、駿河に侵攻した武田勢が今川氏を援助した北条勢に備えて築いた。

■三枚橋城(さんまえばしじょう)

沼津城本丸跡静岡県沼津市三枚橋・大手
狩野川に面した要衝の地に、天正年間に武田氏によって築かれた。武田氏滅亡後、沼津城として大きな発展を遂げたために往時の規模や縄張りは明らかでない。

■賤機山城(しずはたやまじょう)

静岡県静岡市大岩・籠上・昭府町
駿河府中に本拠を置く今川氏の詰城として存在した。『甲陽軍鑑(品第三十四)』には「信玄公、駿河かごはなに、御旗本を陣取」とあり、永禄十一年(1568)十二月、駿河に侵攻した武田氏の手に落ち、以後、武田方の手に落ち、以後、武田方の属城となった。

■清水城(しみずじょう)

静岡県清水市本町・美濃輪町・清水町
駿河に侵攻した武田信玄により永禄十二年(1569)から元亀二年(1571)頃に築かれたと推定されいる。武田家滅亡後、城は徳川水軍の拠点となり、天正十八年(1590)、小田原の役に際して兵糧の集結地となっている。慶長十九年(1614)廃城となり、埋め立てられ、町屋地区となった。

■高天神城(たかてんじんじょう)

静岡県小笠原郡大東町上土方峯向
初期城主は今川氏の重臣の福島氏、のちに小笠原氏に交代したとされる。永禄十一年(1568)十二月の今川氏没落後は徳川家康の属城となり、この地域の支配の軍事的拠点となった。天正二年(1574)五月、武田勝頼の猛攻撃に遭い落城、以後、武田氏の遠江支配の軍事的拠点となった。武田氏の衰退が明らかになった天正九年(1581)三月、籠城を続けた武田方と攻め手の徳川方で壮絶な戦いを繰り広げ、再び徳川方に落ち、以後廃城となった。

■長久保城(ながくぼじょう)

静岡県駿東郡長泉町下長窪字城山
築城時期は明確ではないが、天文年間における今川氏の拠点となったという。永禄十一年(1568)の武田氏の駿河侵攻に際しては、北条方の占拠するところとなり、そののち元亀年間以降には武田方の城郭として修築を受けている。武田氏滅亡の天正十年(1582)には徳川家康が支配し、牧野氏が城主となった。慶長五年(1600)に廃城となる。

■深沢城(ふかざわじょう)

静岡県御殿場市深沢字本城
永禄十一年(1568)、武田信玄の駿河侵攻以来、相模北条氏康との衝突が本格化。元亀元年(1570)暮れから武田軍は北条綱成らが籠る深沢城を包囲した。武田家滅亡に至るまで駿河における武田方の前進拠点であった。武田滅亡後、徳川家康の支配となり、天正十八年(1590)、廃城となる。

■丸子城(まりこじょう)

静岡県静岡市丸子字泉ヶ谷
今川時代、駿河城の西の支城として重要視されていた。永禄十一年(1568)十二月、駿河に侵攻した武田信玄は重臣山県昌景うを丸子城に入れ、翌年には緒賀兵部大輔・関甚五兵衛を在藩とした。天正六年(1578)頃、武田勝頼は城将を屋代勝永に交代させている。

■持舟城(もちふねじょう)

静岡県静岡市用宗字城山
今川氏時代、駿府への侵入を押える重要拠点であった。永禄十一年(1568)十二月、駿河に侵攻した武田勢の手に落ち、駿河先方衆三浦兵部義鏡、水軍の将向井伊賀守正重らが在藩したといわれる。

■横山城(よこやまじょう)

静岡県清水市谷津二丁目字城山
鎌倉期より、この地を根拠とし、戦国期、今川氏の重臣であった興津氏代々の居城である。永禄十一年(1568)十二月、駿河に侵攻した武田信玄は横山城を攻略後、穴山梅雪を城将として修築を加えた。甲州への街道筋を押える支城の一つとして重要視された。天正十年(1582)、廃城となった。

■愛知県の城


■長篠城(ながしのじょう)

野牛曲輪跡愛知県南設楽郡鳳来町大字長篠字市場・岩代・殿藪
永正五年(1508)、駿河、今川氏親に属する菅沼元成により築城された。桶狭間での今川義元討ち死に後、菅沼氏は松平(徳川)氏に属するが、元亀二年(1571)、武田軍の東三河侵攻により武田氏支配となる。元亀四年(1573)、西途上中に発病した武田信玄は、この城で一カ月以上滞在療養している。信玄没後の同年九月には、再び徳川家康の支配に帰した。天正三年(1575)五月一日、東三河の再確保をめざす武田勝頼は一万五千人の兵をもって奥平貞昌を城番とし、五百余の兵が守備するこの城を包囲した。十八日、設楽原に布陣した織田・徳川の連合軍に、二十一日、決戦を挑んだ武田勝頼軍は壊滅的な打撃を受けた。城跡は国指定史跡となっている。

■野田城(のだじょう)

野田城跡愛知県新城市豊島字本城
城の創築年代は不明。永正二年(1505)、駿河今川氏に属する菅沼定則が入り、桶狭間での今川義元討ち死に後、菅沼氏は松平(徳川)氏に属す。元亀二年(1571)四月、武田信玄は野田城を攻撃した。さらに西上の途中、三方ヶ原の合戦後、遠江刑部(静岡県引佐郡細江町刑部)で越年した武田信玄は三河に軍を進め、元亀四年(1571)正月十一日、この城を包囲した。信玄没後、再び徳川方が領するところとなり、天正三年(1575)の長篠合戦に際しても武田勝頼は野田城を攻撃している。