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信玄の合戦
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信玄の合戦
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武田軍旗



信玄の出家
永禄二年(1559)に出家し、院号を法性院、道号を機山、諱は信玄、別号を徳栄軒としたといわれている。「甲陽軍鑑」によれば、「玄」の字は中国では臨済義玄の「玄」。日本では関山恵玄の「玄」で、信玄と付けたのは妙心寺派の岐秀元伯である。
*岐秀元伯岐秀は京都妙心寺の学僧で、享禄年間に尾張の瑞泉寺に住していたが、後に信玄の母親である大井夫人の招きを受けて、鮎沢の長禅寺に住山した。信玄は長善寺を甲府に移し、岐秀を開山として、府中五山の第一位に列した

信玄と快川紹喜

臨済宗関山派の寺と信玄は親しい関係にあった。中でも信玄は、恵林寺を厚く保護し、菩提寺と定め高名な禅僧を住持させている。特に快川紹喜との関わりは深い。快川紹喜は弘治元年(1555)最初に恵林寺に入った後、美濃へ帰ったが、信玄の熱心な招きによって永禄7年(1564)に再び入山した。信玄の戦術、甲州流軍学の象徴ともいうべき「孫子の旗」も快川の揮毫と伝える。天正4年に営まれた葬儀や、7回忌の仏事には快川が大導師を勤めている。

ルイス・フロイスから見た僧侶信玄

フロイスが、1573年付けでフランシスコ・カブエラへ送った手紙で「信玄は剃髪して坊主となり、常に坊主の服と袈裟を着けている。信長に一書を贈りしが、その書状の上に、テンダイノ・ザスシャモン・シンゲン その意は天台宗の教の最高の家及び教師信玄ということなり。信長はこれに対して、ドイロク・テンオマウオ・ノブナガと応酬せり。と報告している。天台宗座主紗門信玄と称し、信長に挑戦したと思われる。
快川紹喜の「信玄七周忌仏事散説」にも、信玄が天台宗の奥義を伝えて権大僧正の位まで昇ったことが記されている。
不動明王

不動明王への信仰

躑躅ヶ崎館の永禄年間の古図によれば、いまの武田神社の東隣に毘沙門堂があり、その北奥に不動堂と飯綱堂が配置されていた。不動明王は大日如来が一切の悪魔を降伏するために忿怒の相を表したもので、武人にとって敵や悪魔を調伏する信仰にふさわしい。
恵林寺の明王殿には武田不動が安置されている。伝えによると天文二十年(1551)、信玄三十一歳のとき、京の仏師宮内卿法康清を招いてみずからの体を模刻させ、等身大の像を作らせたという。そのとき信玄は剃髪し、その際髪毛を漆にまぜ、みずから像の胸に塗りこめ、彩色を施したと伝えている。
「天正玄公仏事法語」のなかで円光院説三は「みずから不動明王を造ったのは治国の宝剣をもって、国を治めるため」とみている。また信玄の葬儀の大導師快川国師の偈(げ)のなかでも、この不動尊は信玄の不離一体のものとしている。
刀八毘沙門天像

毘沙門天への信仰

毘沙門天信仰は、上杉謙信が軍旗に「毘」の字を用いていることでも有名である。もともと仏教世界の中心に立つ須弥山の北方守護神である毘沙門天に対し、武田信玄もまた軍神としてあつい信仰を寄せ、毘沙門堂を建立し刀八毘沙門天を安置していた。信玄の持仏のひとつといわれ、現在円光院に所蔵されている尊像は、恵林寺武田不動尊と同じ京の仏師康清に命じて彫刻させたものである。
また甲府の満蔵院に毘沙門堂を建て、国内真言宗僧徒の祈願所にした。塩山市の熊野神社に残っている刀八毘沙門天の画像は信玄が躑躅ヶ崎館で身近なところに掛け崇拝していたものを、みずから当社に寄進したものと伝えている。
諏訪大社

■諏訪明神の信仰

信州の諏訪神社は出雲大社についで地方の国社として朝廷の尊崇を受けた。諏訪明神は古来、武事の守護神として崇敬があつく、日本第一の大軍神の称があった。武田氏が代々諏訪明神を尊崇していたのは武田氏の古くからの伝統で、武田氏発祥の地武田荘が、諏訪信仰の権力圏に入っていたことを示すものであるが、もう一つの原因は『旧事記』などに見える武田臣につながる武渟川の裔孫が諏訪の国造であったとする説を信じていたということもあるらしい。武田の始祖信義は、この武田王の廃祠を再興してみずから氏姓としたと見えている。こうした伝統を受け継いだ信玄はとくに諏訪明神を軍神として崇敬し、さらに諏訪法性の旗を軍陣に押し立てるまでになった。
甲斐・善光寺

善光寺の甲府移転

信玄が善光寺とつながりを持ったのは、第二回川中島の戦いからである。弘治元年(1555)、善光寺に陣取った謙信は、帰国の折に善光寺大御堂の本尊および仏具を春日山城近郊の善光寺へ移した。そこで信玄は謙信に対抗するように、弘治3年(1557)善光寺本尊の阿弥陀如来像以下を甲府に移した。
武田八幡

■八幡信仰

武田氏の祖となった武田信義は逸見から武川に入り、武田庄を領して武田八幡(韮崎市神山町)を興隆させたといわれ、八幡神社は武田氏の氏神とされた。棟札によれば現在の武田八幡本殿は、天文十年(1541)十二月に信玄によって造営された。
この八幡社は武田氏発祥の地との伝承を背景に、信玄の特別な尊敬を受けたのである。
窪八幡神社本殿
もう一つ信玄とつながりの強い八幡社は、窪八幡神社(山梨市)である。この神社の本殿は武田信光が再建し、さらに信虎が再建し、本殿の装飾壁画の金箔には信玄が川中島合戦での戦勝を祝って奉納したとの伝承もある。窪八幡は長年武田氏が根拠を置いた地に近く、信玄に至るまで武田氏によって改修がくり返された神社であった。

■浅間信仰

浅間神社本殿甲斐国の一宮は浅間神社(東八代郡一宮町)である。信玄はこの神社へ天文十六年(1547)に松本平平定の願文を捧げ、願いが成就したとして弘治二年(1556)正月三日に御礼の寄進を行った。また、天文十九年閏五月二十三日にも信濃平定の願文を捧げ、戦勝後の天文二十年二月五日に感謝のための寄進を行った。
弘治三年十二月二日、社壇などの造営を粗略なく行い、宮中の掃除を毎日二度するようになどとの内容の条目を、甲州一宮神主あてに出したりもしている。浅間神社の根元は富士信仰にあるが、信玄は弘治三年十一月十九日に富士浅間大菩薩に、北条氏康の妻となった娘の安産を祈った。